晩秋の冷たい雨が止んだ。私は、犬の片方の耳を手で覆って軽くささやいた。
「雨が上がったけど、散歩に行く?」
犬は、目を輝かせて鼻先を私に向けた。私は、ジャンパーを着て、リードを手にする。外は、風が冷たいのだが、犬にひっぱられ、また犬をひっぱって坂道を下りていくと汗がでてきた。坂道を降りきって横断歩道を渡る。
公園に入ったところで、汗をふいていると、私の後ろを歩いていた小学生たちが、一斉に、
「あ、あれ!!」と東の空高くを指差した。彼らの指の先にあるのは、二本の虹。手前のものは、すぐ近くにかかっているようだ。虹の色の構成がはっきりとわかる。その向こうのものは、ぼんやりしている。
水色の空に二本の虹は、彼らにとって珍しいもののようで、少しでも高見へ行こうと、色とりどりのランドセルがうす茶色の芝生の山の天辺へ一目散に駆け上がった。
「わあ・・すごい、すごい、きれい・・」とはしゃいでいる。
ブランコが止まっている。サッカーボールも男の子の足の下、みんな、口をあけて空を見上げている。虹は、タイマーに操られまいとして、かすかな抵抗をしている。それはまた、子供たちのため息を誘う。
「消えないでって言ったら消えないのかな・・」と一人が言うと
もう一人が、「そんなの無理だわ」と正直に答える。
「そうだよね」と片方が声を落とす。そして誰もが静かになった。
向こうの虹は端だけうっすらのこして溶けてしまった。手前の虹も溶け始めている。
あたりは、私の、枯葉を踏む音だけがする。
「めくらぶどうと虹」 宮沢 賢治
今日(きょう)こそただの一言(ひとこと)でも、虹(にじ)とことばをかわしたい、丘(おか)の上の小さなめくらぶどうの木が、よるのそらに燃(も)える青いほのおよりも、もっと強い、もっとかなしいおもいを、はるかの美(うつく)しい虹(にじ)にささげると、ただこれだけを伝(つた)えたい、ああ、それからならば、それからならば、実(み)や葉(は)が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠(ねむ)りにはいっても、あるいはそのまま枯(か)れてしまってもいいのでした。
「虹(にじ)さん。どうか、ちょっとこっちを見てください」めくらぶどうは、ふだんの透(す)きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分(はんぶん)とられながら叫(さけ)びました。
やさしい虹(にじ)は、うっとり西の碧(あお)いそらをながめていた大きな碧(あお)い瞳(ひとみ)を、めくらぶどうに向(む)けました。
「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはめくらぶどうさんでしょう」
めくらぶどうは、まるでぶなの木の葉(は)のようにプリプリふるえて輝(かがや)いて、いきがせわしくて思うように物(もの)が言(い)えませんでした。
「どうか私のうやまいを受(う)けとってください」
虹(にじ)は大きくといきをつきましたので、黄や菫(すみれ)は一つずつ声をあげるように輝(かがや)きました。そして言(い)いました。
「うやまいを受(う)けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気(いんき)な顔をなさるのですか」
「私はもう死(し)んでもいいのです」
「どうしてそんなことを、おっしゃるのです。あなたはまだお若(わか)いではありませんか。それに雪が降(ふ)るまでには、まだ二か月あるではありませんか」
「いいえ。私の命(いのち)なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派(りっぱ)におなりになるためなら、私なんか、百ぺんでも死(し)にます」
「あら、あなたこそそんなにお立派(りっぱ)ではありませんか。あなたは、たとえば、消(き)えることのない虹(にじ)です。変(か)わらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三秒(びょう)のときさえあります。ところがあなたにかがやく七色はいつまでも変(か)わりません」

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