春、独特の倦怠からか、どうも最近昼間も眠くていけない。夜はというと、これまた眠れる。眠れないこともあったはずなのに、なぜか今はぐっすり眠れる。しかし夜眠られないのはつらい。つらいながら、一方ではとても不思議な感じを持つ。
寝る努力を惜しみなく・・限りなく。天井を見たり、右下にしたら内蔵がどうのと思ってい見たり、いや左下だよと別の声がささやく。
窓の外には星。窓に張り付く限りある数の星は、星座から外れたあぶれ者のように思え、親しみを感じる。そしてどこからともなくやってくる、静かで恐ろしい闇の力。想像力ばかりが活発に、生き生きと頭の中に棲息し、人のエネルギーを吸い上げていく。あるときは、憎しみをたぎらせ、あるときは、世の中の矛盾に怒り、私はヒーロー。
限りなく舞いあがる先は天国か
深い崖を覗く果ては地獄か。
そんなときに浮かんだストーりーは、どんな作品よりも優れている。詩もことばが冴えている。闇が私に魔法をかけているのだ。魔法は魔法に過ぎない。窓の星が白々とした空に解けていき、私は、すこしうつらうつらして、魔法が消えないうちにと文章にする。「え?」ちがう、自分が思っていたのは、こんなことばではない。できあがるのは全く思ってみない方向。魔法が解けてしまったから、次の魔法までまたなければならない。
魔法にかかったとき、つまり寝床にメモ用紙をおいておくのだと言った詩人がいた。なるほどと思ったが、魔法の言の葉は、魔法がかかっている本人だけのものであろうと考えるので、私には合わない。
今日紹介するのは、実に短い文章だが、眠られない者にとって、救世主登場かという話。
いや、少し違うような・・・まあ、浦島次郎さんこと初代睡眠大臣の話を読んでみよう。
「深夜は睡るに限ること」 坂口 安吾
だいたい、深夜のメイ想などゝいう神代的遺物は、当節、やめた方がよろしい。
近代はすべからく健全でなければなりません。それぐらいのことが分らなくって、なんて悲しい人々がたくさん居るのだろうか。だから近代に於てもメシヤが必要であり、それはお助け爺さんやジコーサマではない。つまり健全でなければならぬ。よって、迷える者、疲れたる者は、カストリ屋でトグロをまかずに、まっすぐ精神病院へ旅行すべきである。これこそ、近代の神殿、神の慈悲は、迷える者、悲しく疲れ果てたる者を、昏々と一ヶ月ねむらせてくれる
この作品を痛切な皮肉と読むか、コメディと読むか、または、人間の苦しみの姿と読むか、読み手の思うまま。
これを書いた安吾は大真面目である。突き放した文体にあふれ出るものは・・と考えて眠れなくなるより、この作品の題名がすべて、深夜は眠るに限る。

0