本日公開の宮本百合子の作品群の中で、面白い作品だなと思ったのは、
「死に対して」
「死について」ではなく、「死に対して」である。とても奇妙な題名に思えた。一行目から、
「めんどくさい、死ぬんだ」。
と男は叫んだ。なぜ男はなぜそのことばを叫ぶのかは語られない。「めんどくさい」理由も。それらは、この短文にはあまり関係がない、死、そのものが問題なのだ。
「死ぬんだ死ぬんだ」と心にくりかえして居た男はやがて青いかおをして、かたくなって居る自分の死がいのどんなに見にくいもので有ろうと思うと、どうにかしてその死がいを人目にかけない方法はなかろうかと思った。男の心の、その乱れた内にもまだ何分か、その本心、美術を貴ぶ心はのこって居た。
「女がさぞ………」
フト男はまにさされたように身をふるわせた。
「女がさぞ……」
このことばは男は死なせられるより情ない辛いことで有った。
彼の何も彼も包まずに自分を思て居る女の様子を思い出しては、その女のことは忘れたようにしてことわりもしずにポッカリねずみ一匹ころすより人の注意も引かずに死んでしまうことはいかにもみじめな様に思われた。
「私の生きていると云うことが貴方の生きる死ぬと云うことによってしはいされてるんですものネ」
思い入った、まじめな、ふるえた声で女の云ったことばを思い出した。
「貴方の生きる死ぬにしはいされてるんですものネ」。
なぜ女はこのことばを吐いたか。明治大正時代の女が男に従っていきていくことしかなかった男社会ゆえのことばか。それとも男と女の情念か。いや、男をつなぎとめるためのことばか。そこは書かれていないので、わからないが、、こういう見方はどうだろう。
全編は、男が死を思いつめる話だが、書いたのは女性である百合子である。女性が、男性の煩悶を冷徹な目で見つめている。その構図に、私はシニカルなものを感じる。女にはことばを吐くことの強さ、言い換えれば男を死から生へと引き上げる力がある。で、最後へと話は行く。
「己はそれほどの勇気もなければ、
あの女をつかまえて殺して自分もしぬほどむごくもない。
彼の女のために己は蒸溜器の底に日の目をも見ずに、かたく、くらく、つめたく、こびりついて居るピッチのようにしてでも生きて居なければならない」
男は心にそう思って自分を命にかけて思って居る、何も彼もささげつくした女の名をこころでよんで見た。
「神がそう思ってはじめから生れたもんなんだ」
男はそう云ってその女の胸をだくように力を入れて胸をだき、女の唇を吸うように深く深く息をすった。
この話が、男女逆だったら、どんな話になっただろう。 ただひとついえることは、女は、「めんどくさい、死ぬんだ」とは思わないだろう。なぜなら、女は生に対して「めんどくさい」という感情はあまりないのではないのだろうか。生をこの世に出すのは女なのだから。女が「死ぬんだ」と思うときは、「疲れた」だろうと漠然とだが私は思う。

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