先週紹介した作品より、一昔ほど前、芥川は、
「孤独地獄」という作品を書いている。
この話は、芥川が母から聞いたという設定になっている。男が二人、あるきっかけで杯を交わす仲となる。ひとりは大通の大叔父であり、片方は、禅僧である。その禅僧が大叔父の前に現れなくなる・・というだけの話なのだが。なぜ現れなくなったのか、また彼はどうしたのかはわからない。自ら命を絶ったと考えるか、それとも河岸を変えて、そこでまた大叔父のような人をみつけて、その人に向かって同じことを言っているのかもしれないと考えるか。
仏説によると、地獄にもさまざまあるが、凡(およそ)先づ、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分つ事が出来るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄(なんせんぶしうのしもごひやくゆぜんなをすぎてすなはちぢごくあり)と云ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中(さんかんくわうやじゆかくうちゆう)、何処へでも忽然として現れる。云はば目前の境界(きやうがい)が、すぐそのまま、地獄の苦艱(くげん)を現前するのである。自分は二三年前から、この地獄へ堕ちた。一切の事が少しも永続した興味を与へない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を追つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃れられない。さうかと云つて境界を変へずにゐれば猶(なほ)、苦しい思をする。そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌だつた。今では……
禅超の言う、孤独地獄というのは、山小屋に一人いることではない。家族、同僚など親しみの仲にあって起こる。なぜ起こるのか、わからない。ただ地獄からは逃れられないのだという。人間とはこういうものなのだとこの僧は、言い続けていくような気がする。
ところで、この作品は、描写が少ない。なぜ彼は聞いた話を材料に、フィクションとして肉付けをしなかったのだろう。その理由を、二十代前半の芥川の素直さであり、そこから生まれる苦しみとしたらどうだろうか。つまり最後の三文が当時の彼にとったらすべてだったのだろう。
自分の中にある或心もちは、動(やや)もすれば孤独地獄と云ふ語を介して、自分の同情を彼等の生活に注(そそ)がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである。
そして最晩年の
「歯車」の最後の部分に通じてくる。
それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だつた。――僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?
彼は逃れられなかった。彼だけではない。誰ものすぐとなりにあり、逃れらない。それが孤独地獄というものなのかもしれない。

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