バスの中で、フランス人の神父が幼い少女と話している。
「きょうは何日だか御存知ですか?」
「十二月二十五日でしょう。」
「ええ、十二月二十五日です。十二月二十五日は何の日ですか? お嬢さん、あなたは御存知ですか?」
「ええ、それは知っているわ。」
「ではきょうは何の日ですか? 御存知ならば云って御覧なさい。」
「きょうはあたしのお誕生日。」
「きょうはあなたのお誕生日! お嬢さん。あなたは好い日にお生まれなさいましたね。きょうはこの上もないお誕生日です。世界中のお祝いするお誕生日です。あなたは今に、――あなたの大人になった時にはですね、あなたはきっと…… あなたはきっと賢い奥さんに――優しいお母さんにおなりなさるでしょう。ではお嬢さん、さようなら。わたしの降りる所へ来ましたから。では――」
数時間の後、保吉はやはり尾張町のあるバラックのカフェの隅にこの小事件を思い出した。あの肥った宣教師はもう電燈もともり出した今頃、何をしていることであろう? クリストと誕生日を共にした少女は夕飯の膳についた父や母にけさの出来事を話しているかも知れない。保吉もまた二十年前には娑婆苦を知らぬ少女のように、あるいは罪のない問答の前に娑婆苦を忘却した宣教師のように小さい幸福を所有していた。
その小さな幸福の思い出が、以下、つづられている。読む人の胸に、自分の子どものころの思いでを甦らせるような話だ。芥川龍之介の「
少年」。

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