唐突だが、手塚治虫は、科学の子を創り、世に送り出した。その子は、ある天才的な博士の失った息子の代理としてこの世に登場する。アトムと名づけられた。その子は、地球の平和のため全身全霊をささげるのだが・・・
本日公開は、
「漫画と科学」 寺田 寅彦
例えば鼻の大きい人の鼻を普通の計測的の大きさの比以上に廓大(かくだい)して描いたり、喜怒の感情の発現を誇張した身振りで示すがごときは、最も月並な慣用手段である。もう少し進んだのになると、鼻や小鼻の曲線のあるデリケートな抑揚をつかまえて、これを少しアクセンチュエートする事によって効果を挙げ、あるいは手足の機微な位置によって複雑な感情を暗示するものもある。
手塚治虫のマンガには、お茶の水博士を初め、鼻の大きい人物がたくさん出てくる。手塚自身が登場する場合も、ベレー帽を被り、鼻が大きかった。この一節でお茶の水博士を連想するだけではない、手塚がこのエッセイをよんでいたかどうかは定かではないが、
科学上の真を言明するために使用する言語や記号は純化され洗煉されて、それぞれ明確な意味をもっている。換言すれば有限な数の言語で説明し尽さるべき性質の概念である。漫画家の言語たる線や点や色はこれに反して多次的な無限の「連続(コンチニウム)」を形成するものである。それで漫画家は言語では到底表わす事の出来ない観念の表現をするための利器を持っている。その利器の使い方の巧拙はその画家の技能を評価する目標の一つになるが、それよりも重大な標準は、それによって表わすべきものの、真の種類や程度にある事は勿論である。科学者がその方則を述べる字句の巧拙や運算の器用不器用は必ずしもその方則の価値と比例しないのと一般であろう。
ここ部分と対応するかのような手塚治虫の発言がある。以下に抜粋する
僕の描く画は象形文字だ
手塚: たとえばね、僕の描く女が無機質だとか、色気がないとか、マネキンみたいだとかいろいろ言われるんだけれど、僕ね、最近ふと思いついたんだけれど、どうも僕自身あまり画を措こうとしてるんじゃないと思うの。僕は大体、もともと画が本職じゃないしね、デッサンなんかもやったことないし、まったく自己流の画でしょ。だから、それは表現の手段としてね、たまたまお話をつくる道具として画らしきものは措いていますけど、僕にとってあれは画じゃないんじゃないかと、本当に最近思いだしたんです。 じゃあ何かっていうとね、象形文字みたいなものじゃないかと思う。(「手塚治虫と深夜の世間話」−『ぱふ』昭和54年10月1日発行)
科学者であり随筆家でもあった寺田の考える漫画というもの、漫画家であり医者でもあった手塚治虫の考える漫画というもの、似たようなところがあるように思う。時間があれば、この二人をもっと比較研究してみるのもおもしろいかもしれない。

0