子供の詩を読んでみると、不細工である。しかし心に響く。いや不細工であるがゆえに心に響くのだ。彼らは”原石”なのだ。思ったままを言葉にする。それは子供だから許されるのであろう。だんだん大人になっていくにしたがって、どういうふうにしたら読んでもらえるのか・・つまり言葉を紡ぎ、文章を編むのである。それは、巧であればあるほど人の心に残るのか・・文章が巧でも琴線にふれるものがなければならない。人の心に残るためには、言葉でない何か・・言い換えれば、プラスアルファがなければならないのだろう。青空文庫に収まっている作家の多くは、そのプラスアルファを持っている人たちである。そのプラスアルファにずっと触れることができるとしたら・・
プラスアルファを持った彼らの死さえ、ずっと読み手の中で活きている。そんな彼らが活き続けることの一つの形としてーテキスト・アーカイヴィング。
今回の誕生日に関する特集の最後は、青空文庫の願い。芥川の
「後世」 への思いになぞらえた富田さんが去年この「読書blogすいへいせん」に寄せてくださった文章でこの特集を締めることとする。
「世話役が推すこの一冊 富田倫生」 特集
ただ、人の世を貫いて流れる文化の大河のひとしずくとなり、後世との出会いを待つといった大望となると、意識の表にはなかなかのせにくい。
芥川ほどの人にしてはじめて、それもごくごく控えめに語って、どうにか格好が付く。
だが、、書く人の胸の奥の底にはしばしば、そんな奇跡に憧れる冷たい炎が、本人も意識することなく燃えている。
けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
そんな胸底の願いを、すくい上げるものがあるとすれば、なんだろう。
出版。図書館。
芥川死して70年、そこにもう一つ、テキスト・アーカイヴィングという可能性の芽が生まれたことを、私は知っている。
「後世」は、青空文庫で読んだ。
そこに描かれた美しい幻は、青空文庫の願いでもある。

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