今朝ちらりとテレビをつけたら、ドイツ対イタリア戦の真っ最中。延長までもつれこんだ、大試合だった。ドイツ人の見方とイタリア人の見方、全く正反対なのだろうと寝起きの重い頭でぼんやり考えていた。
今日は”見方”というものにこだわってみたい。童話作家は、こどもたちに魔法をかけるのだが、その魔法に騙されてはいけないと思うときがある。他の部分に光を当てたなら・・・
「おおかみと七ひきのこどもやぎ 」グリム ヤーコプ・ルードヴィッヒ・カール グリム ヴィルヘルム・カール 楠山正雄訳
ある日、おかあさんやぎは、こどもたちのたべものをとりに森まで出かけて行くので、七ひきのこどもやぎをよんで、こういいきかせました。
「おまえたちにいっておくがね、かあさんが森へ行ってくるあいだ、気をつけてよくおるすばんしてね、けっしておおかみをうちへ入れてはならないよ。あいつは、おまえたちのこらず、まるのまんま、それこそ皮も毛もあまさずたべてしまうのだよ。あのわるものは、わからせまいとして、ときどき、すがたをかえてやってくるけれど、なあに、声はしゃがれて、があがあごえだし、足はまっ黒だし、すぐと見わけはつくのだからね。」
すると、こどもやぎは、声をそろえて、
「かあさん、だいじょうぶ、あたいたち、よく気をつけて、おるすばんしますから、心配しないで行っておいでなさい。」と、いいました。
そこで、おかあさんやぎは、メエ、メエといって、安心して出かけて行きました。
現代社会において、この童話は一つの教訓を与えてくれる。いろいろな子どもにまつわる事件が起こり、子どもだけを残して家を空けることに不安は多い。おかあさんやぎの言葉は、そっくりそのまま人間の子どもへと語りかけなければならない時代である。
さて、今日は、この童話の見方をかえてみたらどうだろう。
ひょっとしたら、ひとりぼっちのおおかみは、やぎのこどもたちが楽しそうに暮らしているのをみて、ほんの少しの時間でいいから仲間にいれてほしかったのかもしれない。
今日こそは話しかけてみよう・・・とやぎの家へ行ったが、玄関の戸があまりにも厳重に閉まっているので、「ああ、やはりぼくは、嫌われ者なのだ」とおおかみは、「よしそれなら・・・なんとかこのドアをあけさせてみせるぞ・・どうせぼくは嫌われものなのだ」と思ったかどうか・・・
またこういう剽窃はどうだろう・・
ある日おかあさんおおかみは、こどもたちのたべものをとりに森へでかけて行くので、七ひきのこどもおおかみをよんでこういいきかせました。
「おまえたちにいっとくがね、かあさんが森へ行ってくるあいだ、気をつけてよくおるすばんしてね、けっして人間をうちにいれてはならないよ。あいつは、おまえたちのこらず、鉄砲で撃つか、まるのまんま、連れていって、動物園というところに連れて行ってしまうんだよ。家族がバラバラになってしまうんだよ。とにかく出ちゃだめですよ」
すると、こどもおおかみは、声をそろえて、
「かあさん、だいじょうぶ、あたいたち、よく気をつけて、おるすばんしますから、心配しないで行っておいでなさい。あたいたち、まるまるとしたこやぎがたべたいよ。」といいました。
そこでおかあさんおおかみは、ワォワォといって、安心してでかけて行きました。
見方を少しかえると全く違ったものになる。人間、既成概念という型にはまると、見えなくなるものがあるのではないかと思うのだが・・

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