サッカーはベスト4が出揃った。優勝候補だったブラジルのロナウジーニョのあの笑顔が見られなくなったのは、少し寂しい。
サッカーをみていると、ボールが砂糖だとしたら、アリが群がるように、さっと集まるものだ・・と上から映した画像をみて思い、ボールの周りに影がさあっと寄ってくるものだ・・と背丈の画面からは思う。
そういえば、やっかいなドイツ語があったはずだと思い出した。
「歯車 」 芥川 竜之介
第二の僕、――独逸(ドイツ)人の所謂(いはゆる) Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亜米利加(アメリカ)の映画俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた
この作品で私は、 「ドッペルゲンガー」(ドイツ語は、ドッペンゲンゲル)というものを知り、ドイツ語であることも知った。大正文学に少なからず影響を与えた、この”怪物”-不可思議なものの正体は何なのか?
「Kの昇天 」 梶井 基次郎
私は海を見ては合間合間に、その人影に注意し出しました。奇異の念はますます募(つの)ってゆきました。そしてついには、その人影が一度もこちらを見返らず、全く私に背を向けて動作しているのを幸い、じっとそれを見続けはじめました。不思議な戦慄(せんりつ)が私を通り抜けました。
私ははじめシューベルトの「海辺にて」を吹きました。ご存じでしょうが、それはハイネの詩に作曲したもので、私の好きな歌の一つなのです。それからやはりハイネの詩の「ドッペルゲンゲル」。これは「二重人格」というのでしょうか。これも私の好きな歌なのでした。口笛を吹きながら、私の心は落ちついて来ました。
自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随(したが)って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳(はる)かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を溯(さかのぼ)って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。
毛細血管の隅々まで血液が通っているような、触れれば鮮血が迸るような、梶井独特の文章の中に、”怪物”の正体が書かれている。あるとき自分の本当の姿が見えてくると、影の自分も人格を持ち始める・・・なぜ本当の姿が見えると、影の自分が人格を持つことになるのか・・・その不可思議こそがこの怪物の正体なのだろう。"怪物"はどこにでもいる。
「昨日デパートの前でおあいしましたよね」と覚えもないのに尋ねられたことはないだろうか?

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