人と人が出会うのは、どんな条件が必要なのだろうか。職場が同じ、学校が同じ、趣味が同じ・・・・などと共通項があるからである。その共通項が一つあれば十分で、二つもあると、かなりの知己になるはずである。と考えるのは浅はかなのだと知らされた話。埴谷雄高さんのエッセイで、題名は忘れた。ずいぶん前に読んだものだ。
長編「死霊」で有名な、故埴谷雄高さんは、作家でもあったが、思想家であり、活動家だった。昭和十年代の話だろうか。あるとき彼は、何度目かの検挙をされた。中野刑務所だったか小菅だったか忘れたが、収監された先に、河上肇も収監されていた。それを埴谷さんは、知っていたが、別段そのときはなんとも思わなかった。
あるとき埴谷さんが、病気になり、塀の中のベッドで過ごすことになった。そのとき、隣のベッドにいたのが、河上肇だったのだそうだ。思想が共通の箇所があれば、共通の知人がいて・・といってもそういった話はできない。できないが、別の話であれ、口はきくであろう。
しかし埴谷さんのエッセイからは、そういった気配はない。今から見ると、豪華競演?ということになのだが、お互い頑固者。頑固者二人が毎日顔をつき合わせて一言も話さなかったらしい。
入院してみるとよくわかるが、となりのベッドの人と一言も話さないということは、かなり難しい。気に食わない人であれ、朝起きたら「おはよう」と言うだろうと思うのだが・・・
今日は、頑固者の片方、
河上肇の命日である。
随筆「断片」 河上 肇
ー その後改造社から送つて来た何百円かの原稿料は、すぐに返した。四月は大衆雑誌の書入れ時の一つで、どこの社でもいつもよりは部数を余計に刷る。殊にこの時の『改造』は三周年記念特別号として編集されたもので、頁数も多く、部数もうんと増刷された。それがみな駄目になつたのだから、私が改造社にかけた損害は少くない。それを賠償することは出来ないが、相手に大きな損害をかけながら、自分は懐を肥やすと云ふのでは気が済まないから、せめて原稿料だけでも犠牲にしようと、私はさう思つたのである。ところが改造社は東京から一人の記者を寄越して、この小切手だけは納めておいて貰はぬと困るとのことであつた。いくら私が自分の気持を話して見ても、之をそのまま持つて還つたのでは子供の使みたいで立場がなくなると言ひ張り、相手も亦たどうしても折れなかつた。二人は大きな瀬戸物の火鉢を挟んで話してゐたが、私はたうとう癇癪を起して、それなら仕方がない、この小切手は焼いてしまはふと云つて、火にくべかけると、相手は私の手を抑へて、焼いたところで誰の得にもなりません。さうまで仰しやるのなら之は頂いて帰ります、と云ふことになつた。ー
頑固者の一端を垣間見る文章である。現代に少なくなった頑固者でもある。私が幼いころは、まだ近所にこんな大人がいたように思う。かかれてあるのは硬い話だが、懐かしさで読んでみるのもまた面白いかもしれない。

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