岸田国士の著作権が切れた。元日の青空文庫の公開は岸田の
「時 処 人」であった。
岸田国士の娘さんには女優の岸田今日子さんの他に、姉の童話作家で詩人の衿子さんがいる。彼女達は、日頃それぞれの道を歩いているが、正月だけは父の元へ集結するという。
―十年前に母親を失つた娘たち二人は、毎年感心に正月を覚えていて、平生は別々に暮しているのを、元日の朝は、ちやんと私のところへ集つて来る。
一昨年は北軽井沢、昨年は伊豆三津浜に、今年は、この小田原の仮寓に、親子三人、例の如く元日の朝の食卓に向つている。(筈である……)―
漱石の書いた「元日」のからくりに岸田は(筈である)と正直に書いている。岸田家の、1954年の正月はなんの変化のない正月だったのだろうと思う。今日子さんと衿子さんに囲まれて父は満面の笑みで幸せを実感していただろう。それが最後の元日になるなど誰が予想しただろう。もちろん本人も予想していなかった。
―いよいよ六十三回目の元日は、この小田原でということになると、第一回目の元日を東京四ツ谷で、両親と共に迎えて以来、よくもよくも生きたものかな! と思う。(中略)
ただ、これが最後の元日だろうと思つたことは一度もなく、同じ元日は二度ないという事実を否定しようとしたこともない。―
「最後の元日になるとは思ったことは一度もない。」そりゃそうだろう。人間、よほど覚悟をしているものでないとそういったことは思いもしないし、例え「最後の元日」だと思っても、本当に最後になるとは限らない。また次の元日がくるかもしれない。岸田に同意した後、図書カードを読んでいて、私ははっとした。作品データによると「日本経済新聞」1954(昭和29)年1月1日に掲載された随筆である。没年をみると1954年3月に亡くなっている。岸田国士は、旗揚げに自ら関った
文学座の芝居稽古の途中で倒れて、そのまま帰らない人となったのだと以前今日子さんがTVのトーク番組で話していたのを覚えている。ということはこの元日が最後だった、そして彼の正月は63回で終わったのである。

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