本日公開は、
「 厭世詩家と女性 」北村透谷
題名だけは知っていたが、中身を読んで驚いた。
ー恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、ー から始まり・・
ー生理上にて男性なるが故に女性を慕ひ、女性なるが故に男性を慕ふのみとするは、人間の価格を禽獣の位地に遷(うつ)す者なり。春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは、古来、似非(えせ)小説家の人生を卑しみて己れの卑陋なる理想の中に縮少したる毒弊なり、恋愛豈(あに)単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり。ー
ー誠信の以て厭世に勝つところなく、経験の以て厭世を破るところなき純一なる理想を有(も)てる少壮者流の眼中には、実世界の現象悉(こと/″\)く仮偽なるが如くに見ゆ可きか、曰く否、中に一物の仮偽ならず見ゆる者あり、誠実忠信「死」も奪ふ可らずと見ゆる者あり、何ぞや、曰く恋愛なり、ー
ー嗚呼不幸なるは女性かな、厭世詩家の前に優美高妙を代表すると同時に、醜穢なる俗界の通弁となりて其嘲罵する所となり、其冷遇する所となり、終生涙を飲んで、寝ねての夢、覚めての夢に、郎を思ひ郎を恨んで、遂に其愁殺するところとなるぞうたてけれ、うたてけれ。「恋人の破綻(はたん)して相別れたるは、双方に永久の冬夜を賦与したるが如し」とバイロンは自白せり。ー
・・・まで・・延々と恋愛論を述べている。読んで、深いため息をひとつ。いやこれでは「すいへいせん」の書き手としては非常に拙い。お茶を一口飲んで、気持ちを切り替える。
私がひとつ気になったのは、確か透谷という人は、20代半ばで自殺した人だったように思う。いったい何歳でこれを書いたのだ?と初出を見てみたら。
初出: 「女學雜誌 三〇三號、三〇五號」女學雜誌社、1892(明治25)年2月6日、20日
亡くなる2年前?ということは、23歳くらいの時に書いたのだ。まあ・・これだけ延々とわかったような顔をして書けるものだ。いや、若いから何でもわかったような気持ちになり、一気に書くことができたのだろう。それが勢いというものだ。と思って、再びため息をつく私である。今度のため息は自分自身へのレクイエム。

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