昭和9(1934)年10月25日に高山本線が全線開通したことにより、奥飛騨の地元有力者や三井鉱山関係者が中心となり神岡線建設の陳情が行われた。しかし、戦況悪化と共に計画は頓挫する。
その後、戦後の混乱が収束した昭和23(1948)年1月に国府町出身の岡村利右衛門代議士のもと、神岡線建設の請願が国会で採択され、11年後の昭和34(1959)年5月に漸く第1工区から起工を開始した。
神岡線は全区間の約6割がトンネル区間の為、7年にも及ぶ難工事であった。このトンネル区間が多いことから、後に「奥飛騨の地下鉄」と呼ばれる所以になった。その後、昭和41(1966)年10月6日には住民の悲願であった国鉄神岡線が開業した。
しかし、この赤字路線の象徴的な神岡線は総工費46億円にも及ぶ建設費で開業したにもかかわらず、開業から15年後の昭和56 (1981)年9月18日には第一次特定地方交通線に廃止承認され、昭和59年(1984)10月1日に全国で二番目の第三セクター鉄道に転換された。
<神岡駅発行【昭和59年9月15日発行】>
<猪谷駅発行【昭和59年9月30日発行】>
◎ 猪谷駅において発券される160円区間の乗車券は一般式が常備されていたのに対して、神岡駅においては金額式を常備していた。
<猪谷駅発行【昭和59年9月28日発行】>
◎ 金沢鉄道管理局の管轄であった神岡駅及び、猪谷駅は名古屋印刷場により乗車券類を調製していた。

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