昭和19年10月25日、フィリッピン東方のエンガノ岬沖で、一隻の空母が沈もうとしておりました。
艦の名は「瑞鶴(ずいかく)」。めでたい鶴と言うその名の如く、開戦以来太平洋を縦横無尽に駆け巡り、激しい戦火をかいくぐりながらも、殆ど被害を受ける事が無かった「幸運艦」でした。
「瑞鶴は不死身だ。弾が避けて通る…。」しかしその「幸運」も、とうとう尽きる時が来てしまったのです。
日本海軍にとって事実上最期の艦隊決戦となった「捷一号作戦」。小澤中将率いる空母機動部隊は、既にこの4ヶ月前の「あ号作戦」で壊滅的な敗北を喫して戦力を失い、「瑞鶴」以下の残された空母は、フィリッピンの米軍艦隊に殴り込みをかける戦艦を中心とした艦隊を守る為の「オトリ」となって、ハルゼー大将率いる機動部隊をひきつけ、その最期の任務を完遂したのです。
激しい戦闘を繰り広げ、爆弾や魚雷が次々と命中した「瑞鶴」は次第に速力が落ち、浸水が激しくなって左舷から傾き始めました。これにより戦闘の続行は不能であると判断した艦長の貝塚大佐は、乗組員に「総員退去」を命じます。
すっかり傾いてしまった飛行甲板に、やっとの思いで這い上がってきた乗組員達は、「瑞鶴」のマストから軍艦旗が降ろされる様子を目の当たりにしました。戦うフネの象徴である証の軍艦旗が降ろされると言う事は、「艦の死」を意味します。
沈む事は無いとさえ信じてきたこの艦…。乗組員達は傾斜に足を取られつつも、敬礼で軍艦旗降納を見送りました。しかしその次の瞬間、
「軍艦瑞鶴万歳!!」
誰言うとも無く発せられた言葉に呼応して、「万歳!!」の声が上がり、飛行甲板を埋め尽くしました。それは、帝国海軍の栄光を一身に担って最期まで戦い続けた「瑞鶴」への、これ以上無い「はなむけ」の言葉でした。
そして14時14分、「瑞鶴」は紺碧の空と海に見守られ、静かに眠りに就いたのです。
その竣工時期が開戦の時期をも左右するとまで言われていた「瑞鶴」は、軍縮条約の失効を睨んで始められた第三次海軍軍備補充計画、所謂「マル3計画」に盛り込まれた大型正規空母「翔鶴(しょうかく)」級の2番艦として昭和13年に起工され、真珠湾攻撃直前の昭和16年9月25日に就役しました。
「マル3計画」は、軍縮条約下で旧態化しつつあった装備の近代化と一隻あたりの能力向上を目指して、翔鶴級空母の他、大和級戦艦や陽炎級駆逐艦、巡潜とも呼ばれた伊号潜水艦など、太平洋戦争中の「主役」となった艦が続々と建造されました。
翔鶴級は、世界初の正規空母となった「鳳翔(ほうしょう)」を皮切りに帝国海軍が培ってきた空母運用と設計の集大成でした。細長くスマートな船体に、後に大和級戦艦が採用した球形艦首(バルバス・バウ)を設け、大和級戦艦よりも強力な機関を持っていた為、34ノットと言う高速を発揮する事ができました。
また、軍縮条約の制限を受ける事がなかった為、搭載機数も増やす事が可能となり、翔鶴級は攻撃力、速力、航続力のバランスがとれた艦となりました。デザインも非常にスマートで美しく、「これぞ日本空母!」と言う魅力に溢れる艦です。
しかし「瑞鶴」は、この捷一号作戦に先立ち、他の空母と共に暗緑色の迷彩が施されてしまいました。航空機の発着に必要な飛行甲板の標識も最小限とされ、搭乗員にとって発艦はともかく、着艦は容易でなかった事と思います。
昭和19年に公開された東宝映画「雷撃隊出動」では、この迷彩を施された「瑞鶴」の姿を見ることが出来ます。そしてこれが「瑞鶴」の「遺影」ともなりました。この映画が内地で公開された頃には、既に「瑞鶴」は上記の通り戦艦部隊の「オトリ」となって沈められてしまっていたのです。
最期は殆ど艦載機も乗せずに「オトリ」となってしまった「瑞鶴」ですが、日本空母随一の「幸運艦」として主要な航空作戦に従事し、「帝国海軍機動部隊ここにあり!」と最期まで奮闘した姿は、永遠に語り継がれる事でしょう。
軍艦瑞鶴よ、永遠なれ!!

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