テト店では、年一回のテト展、不定期のフリーマーケット出店などを行なっています。

2012/5/16

newly washed!  

We have no sooner spread out a newly-washed sheet, than Tet-chan comes to check it out by tumbling around on it.

She seems to enjoy a refreshing touch as if she were lying naked on the sheet.

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ベッドのシーツを洗ったものと換えると、テッちゃんが走ってきて飛び乗ります。

ものすごく気持ちよさそうにごろごろ転げまわり、身体をすりつけます。

猫は皮毛におおわれているけど、なんだか皮膚が持つような触覚があるように見えます。

防護服のような犬の皮毛とは対照的。

獲物を察知する必要もあって、皮毛が敏感なセンサーになっているのでは?
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2012/5/16

躁的防衛について  

フロイトのような天才には後継者がいない。

だが、それでは話にならないので、一応、精神分析を継承発展させた人がいることになっている。

その中でも、メラニー・クラインは重要な人物であり、クラインの対象関係論は現在も精神分析的精神療法の土台の一つである。

「クラインは暗いん」としゃれたくなるくらい、クラインの治療理論は、暗い人間観に基づいている。メラニーも黒の意味がある。

若いころのクラインは黒い服の似合う女優のような美女だった。容姿の綺麗な人は、暗い人生観を黒い服のようにまとうのかもしれない。

彼女によると、人間の心は、まずは、妄想・分裂の位置を確保する。

これによって、自分の心を破壊しようとする攻撃性を他人の心の中に送り込むことができる。

他人とは「わたし」を破壊しようとする迫害者である。

「わたし」とは、他人に迫害される無辜の善人である。

しばらくすると、幼児は自分の妄想に気づく。

攻撃をしていたのは自分であり、自分が母親を破壊しようとしていたことがわかってくる。その現実から逃れられなくなると、抑鬱の位置に移る。

クラインによると、人間の心は、抑鬱の位置にあるのが正常だ。

しかし、日常生活において、妄想・分裂ポジションと抑鬱ポジションをいったりきたりするのも、普通の精神であると言っている。

例えば、傘を持たずに外出したら雨が降り出した。

「天気予報はまるで当たらない。気象庁にいる奴らは学校の勉強ができるだけの馬鹿だ」と毒づく時、その人は妄想・分裂ポジションにいる。

「天気予報は晴れだったが、なんだか降るんじゃないかという気もした。自分の直観に従って傘を持って出たらよかったな」と嘆くと、抑鬱ポジションに移行している。

クラインによると、それぞれのポジションで、人は自分や他人について次のように感じる。

妄想・分裂ポジション:自分は被害者、無実。他人は迫害者、悪者。

抑鬱ポジション:自分は罪人、償いをするべき者。親密な他人とは、不完全な自分を受け入れてくれてきた人。

クラインは、息子を実験台にして自分の理論を検証した。息子の一人は自殺同然の登山をして亡くなっている。娘はクライン理論の批判者の急先鋒となった。

そんな事情もあるのか、クラインは、生涯をかけて、母親(他者)を悪者にする幼児とは、自分の中の破壊性を認めることができず、母親に罪をなすりつけようとしているという理論を丹念に練り上げた。

実は、自分が悪者だったと気づくこと、それが人間が人間の心を持つためにどうしても避けて通れない関門だというのが、クラインの治療理論だ。

他人を悪者にしている限り、心の病は治らないとクラインは考えた。

クラインの到達した信念によると、自分の罪に気づいて人は償いたいと思う。それが他者への愛の芽生えだ。

それまでは誰を愛しているつもりでも自己愛なのだ。

これが、人間なら赤ん坊から言葉を話す前までの幼児の時期に誰もが通っている心の成長だと、クラインは言うのだ。

しかし、現在のように「抑鬱ポジション」と精神病の鬱病の区別なく、少しでも憂鬱になって不眠が続くと鬱病とされる社会では、クラインの理論は疑わしく感じられる。

大人になっても自己愛以外を知らない人は少なくない。そのまま子供を育てて、孫の顔も見ているようだ。

わたしたちの多くは、たぶん、妄想・分裂ポジションで人生を乗り切ろうとしているのだろう。そして、それができる時代に生きている。

クラインは、鬱病に苦しんで精神分析を受けた。そして、自分も精神分析家になった。医学部を中退したため、医者でなければ精神分析家にはなれないという不文律のある精神分析の世界で、必要以上に肩肘を張って論敵と争った形跡がある。

反対者を罵倒して自説を述べる理論家のまわりには、必ず人が集まる。

クラインの場合も、クライン派という一つの精神療法の宗派ができて、日本にも熱心な信徒がいる。

精神の成熟は、抑鬱ポジションで達成されるが、クライン自身は、(狙ったわけではないだろうが)人々の心の妄想・分裂ポジションに訴えて自分の理論を広めていったのかもしれない。

妄想・分裂ポジション→抑鬱ポジション、この流れの中に、逃げ道がある。

躁的防衛と呼ばれる。

狂ったように笑うという状態だ。

テレビは、誰が悪者で誰が被害者かをはっきりさせてくれる。つまり、妄想・分裂ポジションに安住させてくれる装置だ。

しかし、それでも、ふと考え込んでしまう場合がある。その時に必要なのが、テレビのお笑い番組である。

笑いは、必ずしも躁的防衛ではない。コカの実が疲れを取るとしても、それだけでは薬物中毒ではないのと同じだ。しかし、笑いの麻痺的な要素を蒸溜精製したものは、コカインに等しい。

躁的防衛としての笑いは、ギャグと呼ばれることがある。

現実を忘れるための麻薬としてのギャグに関する上手な説明をタモリが赤塚不二夫に読んだ弔辞の中で行っている。

「前後関係から解き放たれて異様に明るく輝いている」瞬間。

一度、ギャグによって現実から解放される瞬間を味わってしまうと、この解放感を再現し持続させるために、より強烈なギャグが必要になる。

森田一義「弔辞」  ←YOUTUBE・音が出ます

この動画を今日視たとき、弔辞の最後でタモリが何かギャグめいたことを言ったりしたりするのかと思った。自分を赤塚不二夫の作品の一つであると言っているからだ。

しかし、彼はタモリではなく森田一義として弔辞を読み始め、タモリという躁的防衛はテレビの中にしか存在しないことを宣言して、粛々と弔辞を読み終えた。

タモリの弔辞によると、赤塚不二夫はたこ八郎の葬儀では終始笑っていたという。

「あなたは『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません」とタモリは語りながら、弔辞の中で「先生」と呼んだ赤塚不二夫の要望を知りつつ、人の死の前で、あくまで抑鬱ポジションに留まったのだ。

明るく前向きに生きることと、痙攣発作的な大笑いの躁的防衛が混同される今の世の中では、後になれば、珍しく反時代的な姿勢であったと振り返られるかもしれない。

わたしとしては、タモリの取った姿勢から得られるものは、ギャグによって逃げおおせた人生よりも、何かしらスピリチュアルな実りのあるものであってほしいと思う。





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2012/4/14

(無題)  

We have found two little flowers on the cactus,

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whcih are set on the back of Tet-figure.

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Here comes Tet-chan to see the cactus blossoms.

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サボテンに花が咲きました。

テッちゃんも不思議そうに見てました。

「サボテン」という言葉が何語なんだろうかと調べたら、なんと、

ポルトガル語のシャボン(石鹸)+手の合成語なんですと。

石鹸のあわだらけの手みたいってこと?

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2012/4/9

spring?  

Has spring come?

It doesn't matter. As far as cosy enough is here in the Kotatu I am stuck in.

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春?

まだ寒いにゃ。
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2012/4/9

にゃんでい・ねこまやvol.5  

にゃんでぃ・ねこまや vol.5 

2012年4月7日(土曜日)12:00〜18:00
     4月8日(日曜日)10:00〜16:00


状況、終了♪

ありがとうございました!

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今回もいろいろな方にテト庭を体験していただきました。

もしかしてテト庭って、箱庭よりスゴイかもと思うこともありました。

箱庭はミニチュアの人、動物、乗り物、樹木、建物などを使います。

心理カウンセリングの箱庭

しかし、テト庭はそのような具象物は、猫や魚や蛇だけ。

その他のものは、積み木のような立体物を、作り手の想像力を使って表象化する必要があります。

さらに、庭を作った後は、箱庭と違って、解釈されるのを待っているわけにいきません。

作った人が自分の表象を他人に理解させるため、対話するというタスクを引き受けます。

「まあ、なんとなく置きました」という返事から、なんとか他人が自分の想像の中の表象を理解する手がかりになるような言葉を見つけ出すための苦闘が始まります。

そして、その言葉との苦闘は、まさに自分と向き合うしんどさなのです。

箱庭のようなカタルシス効果は少なくなるでしょう。しかし、心理的にはより内面の心象風景に近づいている可能性があります。

だから、よく考えるとテト庭がすごいというよりは、テト庭を作る人の「自分と向き合う」意欲がテト庭の価値を創り出すということのようです。

わたしたちは、ふだんの生活の中では、人と大笑いしながらモノを飲み食いしてなんとか「自分と向き合う」時間を少なくしています。

自分と向き合うというのは、心理的なブレーキだから、日々の暮らしの効率を下げ、生産性を落とし、気持ちの明るさを損なうものです。

必要もないのに、自分と向き合いすぎると、それがつまりノイローゼとか神経症とかウツということになります。

そして、必要な分からも逃げるとしても、それで逃げおおせいるのならそれでいいと思います。

テレビのお笑いタレントの爆笑トーク、やはりお笑いタレントが知的な評論家風にやる毒舌や政治や世相の風刺トーク。

そういうことを一生やっていてもいいと思います。

しかし、わずかながら、テト庭のような道具を使って、自分と向き合う時間を自らに無理にでも科さなければ(オオゲサに言うと)survive(=意味「〜にもかかわらず/〜の後でも生きている)できない人たちもいるようです。

そのことがわかった二日間でした。

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京都・伏見墨染 京阪墨染 徒歩1分
       JR藤森  徒歩10分

ヴィヴィアンリーオープンスペース (伏見区深草石橋町91)

京都・伏見墨染 での開催は、最後です。


ねこまや←ホームページです


テト店テト庭セラピーがイベント価格\1000/50分で体験できます^^

4月7日(土曜日)2:00〜5:00予約済み
4月8日(日曜日)2:00〜4:00

テト庭セラピーは、箱庭療法のテト店バージョンです。

三十センチ四方の板の上で積み木のようなことをします。

頭ばっかり使っている人がたまに身体を動かすと心まですっきりすることがあります。

言葉は頭に属するもので、言葉を使っていると頭は動いていますが、心は身体の奥でじっとしています。

絵を描く、積み木をする、楽器を演奏する、踊るなどといったことは、言葉に押さえ込まれている心をねぎらう方法だと思います。

テト庭セラピーは、「積み木遊びによる心のマッサージ」、・・・のようなものです。


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そして、いつものテト店グッズ。粘土の猫やTシャツ。

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モノあまりの世の中、雑貨を増やしてなんとする?

自問しつつ、テト店では、オーブン陶土の小さな猫を創っています。

今の文明が滅びて、人類の次に文明を築いた知的生物(或いは他の天体から訪れた知的生物)が地層の間から、この猫を掘り出したら面白いなと考えたりしながら、・・・(^^)

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