
J‐CAST ニュースに面白いインタビュー記事が載っている。
広がる若者世代の貧困 「一回転ぶとドン底まで行く」―NPOもやい事務局長・湯浅誠氏インタビュー(上)
http://www.j-cast.com/2007/06/30008795.html
「ネットカフェ難民」転落 本当に若者の「責任」なのか―NPOもやい事務局長・湯浅誠氏インタビュー(下)
http://www.j-cast.com/2007/07/01008796.html
湯浅氏は、
日本全体が「貧困化」していると言う。若者がメディアに注目されているのは、就職氷河期など取り上げやすいから。
氏は、貧困化の原因を
「溜め」という言葉で読み解く。
貧困に陥る人には、「溜め」が失われてしまっている人が多いと
。「溜め」とは、貯金といった金銭関係、家族・友人、精神的には「自信」とか。
「溜め」がないと、一旦失業など貧困の門口に立つと、「つるつるの坂道みたいなもので、何の歯止めがない社会なんですね。一回転んだらさーっとどん底まで行っちゃう」。
派遣、バイトなど今の若者の働かされ方は、みんな「直行直帰」。毎日行く現場が違うし、毎日会う人が違うから、友達ができない。
人間関係でも「溜め」「安全ネット」がなくなってしまっていると。
そして、経済的「貧困」は、「
意欲の貧困」につながる。
過去に「成功体験」みたいなものがあれば、それを応用して「できる」と思える。しかし、それがないため、長続きしない。
「これも広い意味で『貧困』だと思うんですよ。つまり、『意欲の貧困』、精神的に『溜め』がないということなんです。」
氏は、これは自己責任の側面はあるが、それだけに解消できないという。
「日雇い派遣については、政府が派遣法をどんどん緩めていった。日雇労働で有名な大手企業も、なんであんなにでかくなったのかというと、政治が規制を緩めてきたからですよね。その結果、かつてのように
仕事していれば生活できるはずだ、という『神話』が成り立たなくなっている。」
氏は、この解決策として、最賃、生活保護、雇用保険などのセイフティーネットの整備を訴える。
分析は良しとして、対策は少々平凡?
「
論座」7月号
「『承認格差』を生きる若者たち」(萱野稔人津田塾大准教授)は、同じ流れで分析を深めている。
若者にとって
「経済格差」は、「承認格差」と背中合わせになっていると分析する。
その背景には、氏の仕事感がある。
「仕事はたんに生計を立てるためだけの手段ではない」。それは同時に「
社会のなかで承認され、みずからの価値を証明し、アイデンティティーを確立するための手段でもある」。
「若者たちは格差を経済的な問題としてだけではなく、場合によってはそれ以上にアイデンティティーの問題として生きている」。
通り一遍の雇用対策だけしか訴えない左派的なもの言いが、格差のあおりを受けている若者に反発されるのは、この「社会的承認」の問題に触れないからと。
自分たちの問題が地道な労働運動によっては解決されないと感じた若者は、
新たな「承認回路」を求めてナショナリズムなどに傾斜したりする。
氏は、今の格差の本質を公分析する。
格差は昔からあった。しかし、いまの格差はそれとは違う。
社会そのものが
コミュニケーション重視型の社会へ移行し、他者との言語的・情緒的なやり取りの中で自己を実現していかなければならなくなっている。
この裏返しとして、
コミュニケーション能力、即ち他者との言語的・情緒的なやり取りがうまくできない人ほど格差の犠牲になりやすい、と。
この点で、現在の格差は当事者にとって、経済的な困難よりはむしろ承認の不足や「自己」の不全感として受け止められている。
これらの論考を手がかりに、政策をどう組み立てるのか。
問題の元凶は、仕事がないことと同時に、仕事があっても必ずしも「将来希望」の持てる仕事ではないということ。
セイフティーネットは勿論必要だろうが、これまでの社会においては十分やっていけたはずの「有業者」における貧困化を生まない制度設計が必要。
仕事の質を上げることによる社会的「承認」システムの整備が必要だろう。
労働分野の規制緩和路線を見直し、社会的承認を得られるような労働契約法制にしていくこと。
「働いていれば、何とかなる」(将来設計が成り立つ)ようにしなければならない。 それは、同時に自己承認、自己実現を追求できる仕事の形態の保障である。
最賃法制だけでは不十分。均等待遇(派遣、下請け含めた)、労働時間の選択の自由(細切れ労働の押し付けができないようにする)・・・。
社会的承認システムが一定整った社会で、自己責任論が語られることは当然だろう。
また、「溜め」を作る余裕・自己努力の余地が十分ある社会システムであってはじめて、自己責任論が前向きな論議となりうるだろう。
「承認」はある形が自動的に与えられるのではない。それは、個々人が自分で獲得するべきものである。自己を他者(特に強者に)に預けることにより幻想の承認を得るのではなく、多少の重荷や苦しみを背負いながらも自分で獲得すべきもの。そこが、ナショナリズムとの違いである。
そのためにも、社会はそれが可能にする基盤、労働契約法制をまず整えるべきだ。

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