内田樹のいくつかの記事を紹介したエントリーに、
大江さんが内田樹を「屈折した選良意識」と評された。それを拝読し、「なるほど」と思い、少々長いコメントを返した。私は内田樹の「選良」たるところに惹かれ、なおかつそこに屈折のあるところ、誠に興味深く、その記事や著作をおもしろく読んでいる。
そして、真の選良には「屈折」が付随してほしいと願う、そのことも書いたが、なぜか?その理由は自分で判然としなかった。「屈折のない選良」の泥臭さへの、単なる嫌悪感かもしれぬと考え、その部分は保留してコメントを書き終えた。ところが、
その次の日の内田樹のエントリーを読み、「ううむ、これかもしれぬ」と思った。少し長いが、このエントリーの最終に近い部分を以下に引く。
オルテガが「貴族」という語に託したのは、外形的な「人間類型」や「行動準則」のことではない。
そうではなくて、自分の行動もことばもどうしても「自分自身とぴたりと一致した」という感じが持てないせいで、そのつどの自分の判断や判定に確信が持てない。だから、より包括的な「理由」と「道理」を求めずにはいられず、周囲の人々を説得してその承認をとりつけずにはいられず、説得のために論理的に語り修辞を駆使し情理を尽くすことを止められない…
という「じたばたした状態」を常態とする人間のことをオルテガは「貴族」と言ったのである。
自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間だけが、公的な準位で「見知らぬ他者との共同生活」に耐えることができる。
つねにためらい、逡巡し、複数の選択肢の前で迷う人間。
オルテガはそのような「複雑なひと」のことを「貴族」と呼び、「市民」と呼んだのである。
オルテガを引きながら、みずからと関連づける記述はひとつもないが、明白である。この「複雑なひと」のひとりが自分であることを強く重ね合わせながら、内田樹は書いている。
選良を称揚することは、民主主義などという個別の統治制度が自明の善であるかのような風潮の出来上がってしまった21世紀初頭においては、ずいぶんといろいろなエクスキューズを要する。だが、「多数」にまつわることなど、まったく信じない私は、選良が屈折という洗練をもちつづけ、すこしでもマシな世の中になることを、ここ、東京西部の8畳ほどの部屋から強く期待する。
思考の性能と訓練の度合いにおいて平均的もしくは劣悪な、しかしながら精一杯誠実に、そこそこ善良に暮らす気概はもっている私たちが、すこしでも幸せに暮らせるように、選良の皆さん(数人から数十人程度の稀少かもしれないね)には、ほんと、がんばっていただきたい。それにはあまりにもきびしい世の中だけどね。

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