いきなりだが、去年、俳句を論じるにも何か仕掛けが要りそうだということで、なんとなく考えていた
表面主義(surfacism)を高らかに宣言したりする。表・面・主・義!(大声) 蓮實重彦という極めてギザギザして画数の多い人の
「表層批評宣言」を懐かしく思い出す向きもあろうかと思う。まったく無関係でもないが、それほど関係するわけでもない。俳句における表面主義は実はかれこれ5年以上も前、俳句を始めて1年ほどのときに一度宣言したものであり、それを最近になって思い出したということで、私にとっては新機軸でもなく、さりとてじっくり温めていたわけでもない。
さて表面主義俳句とは? それは水面に浮かぶ浮標あるいは木の葉のごとき俳句である。水面の下には、内奥などと比喩される水と水底が存するかもしれない。水面の上には空気である。ここが社会的言語(ランガージュ)かもしれぬ。そんな感じ。つまりね、表面主義俳句は、内奥を読ませず、社会的言語へと膾炙されることもなく、水面でぷわぷわ浮いてるわけ。そんな句が素敵!という宣言である。それゆえ表面主義俳句批評もまた、表面をのみ語ろうとする。水や水底や空気へと視線を深入りさせたり拡散させたりしない。というわけで、今日から私を「
表面主義者」と呼んでさしつかえない。
べつに暇なわけではないが、なぜか宣言した。ただし明日以降これが展開を見せるか否かは不明。まあぼちぼち行く。

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