2009/3/17

魏との交渉  原文  歴史

景初二年(239年)六月、倭の女王、大夫難升米(なしめ)等を遣(つか)はして郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せむことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、もって送りて京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「・・・・・今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮(ゆる)し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。・・・・・」と。

−−−−この間、240・243・245年の交渉が記されています。−−−−

正始八年(247年)、太守王頑(おうき)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)と素(もと)より和せず。倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わして郡に詣(いた)り、相攻撃する状を説く。塞曹えん史(漢字無し)張政等を遣わし、因りて詔書・黄撞(こうどう)をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りて告喩す。
天子:ここでは明帝のこと  太守:郡の長官  京都:魏の都・洛陽
金印紫綬:後漢の制では、天子の玉印黄赤綬を最高に、金印朱綬・金印紫綬(最高の大臣クラス)・銀印青綬となっていた。
狗奴国:邪馬台国の南にあるという国 黄撞:黄色の軍旗

0

2009/3/16

訳  


邪馬台国では、もともとは男の王を立てていたが、7,80年が過ぎ、国内が乱れ、戦争が何年も続いた。そこで諸国が一人の女子を王とした。名は卑弥呼といい、呪術を行い、多くの人がその占いを信じていた。年はとっていたが、夫はおらず、弟が補佐して政治を行っている。
女王となってから彼女を見た者は少なく、1000人の女を召使いとして近侍させている。ただ男が一人だけいて、飲食を給仕し、彼女の命令を伝えるため居所に出入りする。宮室・やぐら・城柵をおごそかに設けており、常に番人がいて、武器を持って守っている。
0

2009/3/15

卑弥呼の死  歴史

魏志倭人伝には、卑弥呼の死については

“ 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
(卑弥呼は死に、直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が徇葬された) ”

とのみ書かれている。

この前の記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死するをもって」つまり「死んだので」墓が作られた、あるいは、「すでに死す」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄憧を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「もって死す」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。

卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説が有力である。九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説[4]などがある。

天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[5]、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。
1

2009/3/14

呼び名  歴史

『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。

一説には、中華思想により、他国の地名、人名には『蔑字』を使っているため、このような表記になっている[1]。

また他の一説には、(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。

現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。

日巫女(ひみこ)
日御子(ひみこ)
姫御子(ひめみこ)
日女子(ひめこ) - 駒沢大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
日向(ひみか・ひむか) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
など諸説ある。

一方、中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある[2][3])。

一方で、当時の中国語から「ビミファ」だったのではないかとする説もある。その場合、「ミファ」は大神(オオミワ)神社のミワに対応し「ビ」は、女性の尊称(ビ、ベ)、日あるいは蛇とも取れ、姫神、日神、蛇神とも解釈できる(後世、そのように解釈された形跡がある)[要出典]。

いずれにせよ、弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則についてはまったく説が確立しておらず、したがってその意味も判然としない(少なくとも現代日本語で解釈するのは学術的に無意味であり、古代日本語の音韻論を基本に考察しなければならない)。
0

2009/3/13

『三国志』の卑弥呼  歴史

「魏志倭人伝」の卑弥呼

「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あるが正確な内容については不明。既に年長大であったが夫を持たず(年已長大 無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來 少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩)。

0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ