原付日本一周・旅の回想録について  1996〜97原付日本一周

この項は固定です。
そのままスクロールして本文に行って下さい。

これから書く旅の話は、10年以上前の回想録です。

ホンダの「ベンリイCD50」という、原付バイクで日本を周った記録です。

過去の記録は、「記事カテゴリ」の「1996〜97原付日本一周」「1996〜97原付日本一周沖縄編」「1996〜97原付日本一周後半編」から見てください。

当時日記帳に書いたままを載せているので、現在進行形の形で記述しています。
そのため、2009年現在とは少し違っている所もあると思います。
その点はご了承ください。

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今は無き有村海運のクルーズフェリー「飛龍」
那覇港にて
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2009/6/10

月夜の鉄塔  写真とカメラ

ある日の夜

まだらに浮かぶ雲が、月の光に照らされて、とてもきれいでした。

鉄塔がシルエットになってこれまた良い感じ。

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NikonD200
DXAF-S Nikkor18-70mm 3.5-4.5G
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2009/5/28

木彫食器  日々雑記

すっかり放置しっぱなしです(汗)

しばらく更新は出来ませんが、閉鎖はしません。

ネット環境が整わない所にいるため、当分は超スロー更新となります。
あしからず。

さて、久しぶりのネタ投入です。

端材を使ってスプーンなど彫ってみました。
何の木かはわからないのですが、それなりに堅かった。

けっこう楽しいです。

仕上げはくるみ油を塗る予定です。

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2009/4/4

サクラサク季節  日々雑記

この時期になると、どうしても思い浮かべてしまいます。
1945年、4月。

日本は多大な犠牲を積み重ねた上で、米軍に沖縄上陸され、硫黄島もとられ、本土の各都市も空襲で焼かれ、戦争末期で、どうにも絶望的な時期でした。

日本海軍の切り札とも言うべき戦艦大和が、沖縄に最期の海上特攻に出撃して、沖縄本島の島影を見る事すら出来ないまま、米軍の艦載機によって東シナ海に沈んだのが4月7日でした。


そして、この時期に咲く桜を見ると

散る桜 残る桜も 散る桜

の句が自然と頭に浮かんできます。
特攻で出撃して行った若者達の多くが詠んだ句です。

良寛さんは、この句が後世にまったく違う意味で詠われるとは、想像すら出来なかったでしょう。
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2009/4/3


1997年5月21日

17:00。沖永良部島に寄港。
接岸後、下では大型フォークリフトが大きさに似合わず驚くほどの旋回能力を発揮して、狭い港内で大きなコンテナをフェリーに運び込む。
石垣島とフォークの動きが違う。
ぶつかりはしないかと思わせるほどギリギリで、フォーク同士がすれ違いながらコンテナをどんどん船に入れて行く。

「なみのうえ」は当たりだった。
食堂は船にしては値段も安いと思う。
うどん320円、牛丼530円、中華丼580円、小皿の野菜110円、味噌汁100円など。
学食のようにおぼんを取り、棚に並べられた料理を取っていくという形だ。
棚に無いメニューは注文する。そして会計。
自分は牛丼を食べた。
食堂は満席に近い状態だった。
食べ終わったら返却口へ。

飛龍と同じでベッドの部屋だ。
ベッドの上で絵を描いたり、西表で集めた星の砂のより分けをしたりしながら暇をつぶした。
シャワー室は4人までが入れるほどの広さで、湯船もあった。
シャワーの湯量も十分だ。
船に揺られながら浴びるシャワーもいいものだ。

こうして船の上の1日が終わった。

沖永良部、奄美と寄港するに従い、乗客数が増えていく。


5月22日
眠りは浅かった。
枕がいまいち合わなかったせいだろうか?
外にの空気を吸おうと思ったが、寒くてやめた。
本土は春だ。

さすがに沖縄の気候の気分ままではまずいと言う事か。
しかし、昼になればツーリングにはちょうど良いだろう。

8:30ついに鹿児島港到着。
5ヶ月振りの本土だ。


さあ、行ってみようか。


まずは知覧と池田湖かな。

ロングツーリングは久しぶり。
走っていると眠くなるし、尻が痛い。

まず池田湖。
湖畔に入る轍を見つけたので、そこから入って記念写真。
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そして時計を見たらまだ11:00だったが、昼食。
沖縄で買ったオキコのインスタント沖縄ソバを食べた。

とにかく、これから食費も含めて、極度に切り詰めないとやばい。
腹が落ち着いたところで次ぎは知覧へ。
モヤがかかっていたが、開聞岳がとても美しい。


知覧と聞いて自分はまず陸軍の特攻基地を思い浮かべていたのだが、お茶の産地でもあった。あちこちに茶畑があった。
畑に立つあの扇風機のような形をしたプロペラは何なのだろう?
(※後で知ったが、冬に霜を防ぐ為に、畑の空気をかき回すものらしい。)

ようやく、現地に到着。
知覧特攻平和記念会館

知覧の事を知ってから1年たって、やっとここまで来れた。
神奈川に住む自分にとっては、ここまで来るのは大変な事だ。
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入場料は500円。
入り口のロビーには、燃えている隼から、焼けただれた特攻員を、天女が数人で囲みながら昇天していく様を表した巨大な壁画が描かれている。
天女の一人は、自分の冠が頭から落ちるのも忘れて、やさしい笑顔で抱きかかえていた。

うまく説明できないのだが、単に感動という言葉で片付けられない、心をゆり動かす腹から何か込み上げてくような思いで、その絵を見ていた。

入り口右側には前半分のみのかなり朽ち果てた零戦。
主翼に付いている13mm20mm機銃、背負い式の落下傘を収めるための座席、風防の前面には防弾ガラスが付いていたから52丙型だろうか?

さて、展示室へ。
真ん中には飛燕が翼を休めていた。
かつては浜松基地に屋外に半ば放置状態で置いてあったが、巡り巡ってここに落ち着いたようだ。

その横にはアツタエンジン。当時の日本では珍しい液冷式。
水冷と呼ばないのは、高空では水だと凍ってしまうので、エチレングリコール液(不凍液)を混ぜていたから。
ダイムラーベンツのエンジンを、川崎がライセンス生産した物だ。
試作時の性能は良かったが、量産製造において部品精度が出なくて故障が多く、戦地では整備員泣かせのエンジンだったようだ。

ここにきて本当に驚いたのは、京都の嵐山から行方知らずだった「疾風」あったことだ。
かつてはレストアを経て飛行可能だった。

さて、展示物の多くは、数え切れないほどのたくさんの若者達の遺影と実物の遺書、遺品など。
鹿屋基地の展示館を見た時は、どこか技術的な印象を持ったが、こちらは人間のにおいがした。
中にはスケッチなどもあった。上手な絵だった。
出撃して行った隊員はおおよそが自分と同じか少し下位の人達だ。(注:1997年当時です。)

最年少は17歳と4ヶ月。
高校生の年齢ではないか!

「月光の夏」のピアノも展示してあった。

しかし、戦争と特攻、沖縄と本土では明らかにその考え方は違う。
沖縄は多数の市民が犠牲になり、占領されていた時代が長かったと言うのもあるのかもしれない。

ここの展示物を見てると、意外とアッサリというかサバサバした印象を持った。
空と陸の違いと言うのもあるのだろうか?
しかし、それは自分が持った印象に過ぎない。

あまりに若くして出撃していった隊員達がいかにして死と向き合っていったのか。

自分が当時に生きていて、国の存亡がかかっている中で死んでこいと命令を受けたらどんな事を思うのか、とか考え込んでしまった。
死ぬのは怖い。
しかし絶対的に国が危ない。
そこまで追い込まれたら、人間は平和な時とは全く違う感覚に変化してしていくのだろうか?
戦記とか歴史の本を読んでそう言う事をよく考えるのだが、今もって答えは出ない。

こうして2時間ほど滞在して、修学旅行の小学生の団体にもみくちゃにされそうになりながらここを後にした。
今日のテント場は火の神公園に決め、15:30到着。
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2009/3/31

凧の糸  日々雑記

しばらく更新できませんでした。

旅の知り合いの一人に、糸の切れた凧のようにフラリと海外などに出かける人がいます。

自分はそこまではいきませんが、糸の切れた凧にあこがれていたりします。

風に乗ればどこまでも飛んで行くし、風がなくなればハラリと落ちる。
そしてそこに留まって人が居れば、そこの人達と関ってみたり。

それには、偏見に負けない図太さと、何でも知りたがる大いなる好奇心が必要となります。

自分はどちらかと言うと繊細(過ぎるくらい)な性分らしいので(よくそう言われる)、時々自分がどうなっているのか分からなくなる事があります。
「ミスターナーバス」なんて呼ばれた事もありますねぇ。(笑)

まだまだ人間修行が足りないのかなとも思います。

もしかしたら、一生こういう感じなのかもしれません。

でもあきらめない。
例え遠回りだったとしても、自分の作りたいと思う物が実現できるまでは。

自分は物を作る事に喜びを感じる事があるし、それを喜んでくれる人がいるから、次も頑張ろうと思います。
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2009/1/20

フェリー「なみのうえ」の事  1996〜97原付日本一周沖縄編

ラッタルを上げる係りの船員さんが、一仕事終わってたまたま近くに立っていた自分に話しかけてくれた。
大型船の燃料消費は膨大で、鹿児島から那覇までで200〜300万円かかってしまうらしい。
ドラム缶1本分を約6分で燃焼させてしまう。

積んでいる燃料は2種類あり、A重油とC重油を使い分けるそうだ。
C重油は大海を航行する時、A重油は寄港・接岸など細かいエンジン操作が必要な時に使われる。
つまりA重油の方が油としてのグレードが上と言う事になる。
C重油はかなりドロッとしているらしく、一度温めて溶かしてからエンジンに送り込む。
そのため、排気煙もそれだけ煤が多いらしい。

船具について。
係留ロープは1本50万円。(どのくらいの長さでこの値段なのかは不明)

装置について
この船には、ローリング(横揺れ)を抑えるフィンスタビライザーという物がついてる。1枚1億円(!)だそうだ。

あと、喫水線下がなぜ赤いのか。
これはサビ止め剤の色らしい。
また、かつて有毒と言われていた理由も分かった。
海草や牡蠣、貝などが付着するのを防ぐ為に、水銀の入った塗料が使われていたからなのだった。
船底にそういうものが付着すると、それだけ抵抗になるから、速度が出ないし、燃費も落ちる。

現在の塗料には環境汚染に対処して水銀は入っていないらしい。
因みにこの塗料は1斗缶で5万円で、船底の塗り替えで1000万円かかるらしい。
船舶品と言うのは何から何までコストがかかるものらしい。

「なみのうえ」のエンジンはディーゼルで、9000馬力(520回転/分)2基搭載。
つまり18000馬力。
最高速力24ノットで、巡航速度は20ノット。
接岸の際、港の人が係留ロープを引っ掛けるのが1回5000円〜1万円。
コンテナは1箱10万円ではきかない上、潮で腐食しやすいからさほどもたないらしい。

まあ、何から何まで高価である。
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2009/1/14

最後の夜、そして船上にて  1996〜97原付日本一周沖縄編

1997年5月21日

沖縄における最後の夜。

今日は天気が良かったし、その割りに涼しくて過ごしやすかった。
友人宛に小包を送る。

波照間のキビ刈りで稼いだお金が頼りの残りの旅。

帰路に着くまでお金が足りるか不安である。
無駄使いは一切できない。

でも、就職して落ち着きたいとは思わない。
もっといろんな事を知りたい、見たい。
自分はあまりに何も知らな過ぎる。

旅での心配事。
磨り減ったタイヤの事、金欠、カメラのフィルム。


5月21日
5:40分にアラームが鳴ったが、そのまま澄ましていた。
7:00に目覚めた。
涼しくて、実に気持ちの良い朝だった。
昨日買ったロールケーキで軽く朝食を取り、早速テントの撤収にかかった。
相変わらず荷物の多さにはため息が出る。

一人旅が再び始まったが、前と違い人に声をかけることが出来るようになったので、昨年とは比べ物にならぬほど楽しい旅になりそうだ。

フェリー「なみのうえ」は、2年前(1997年当時)に就航した新しい船だ。
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船の上でポツンと外を眺めていた女性に声をかけてみたら、けっこう喜んでくれて、おまけに同年の子だった。
旅先で生年月日が近い人に会うのは、米原キャンプ場で会ったOKB君以来だ。

彼女は沖縄で看護士をしていて、有給を取って与論島へ1泊旅行との事。
友人2人での旅行。
2人とも色白で、美人だなと思った。

沖縄の言葉を教えてくれた。
かりゆし
めんそーれ→ いらっしゃい ようこそ

サバニ→ 漁船(木造の小さい船)

ウサガミソーレー→ めしあがれ どうぞ

フラー
ノーパー
ゲレンゲレンパー→ すべて「バカ」の意味

マーサン→ 美味しい

パタイ→ 死ぬ

クヮッチーサビラ→ いただきます

クヮッチーサビタン→ ごちそうさま

ミ→ 目

ティー→ 手

ヒサ→ 足

クンダ→ ふくらはぎ

ガマク→ 腰

頭→ チブル

チブルヤミーン→ 頭が痛い

アガ!→ 痛い!

波照間の方言とは全く違うので、興味深かった。 
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2009/1/13


女の子チャリダー2人と、与那国の船で出会った女性カメラマンを那覇港で見送った後、特に急ぐ事も無かったので、のんびりと瀬底島に向かう事にした。

途中、石切り場があって、ダンプカーがガンガン走っているので、ホコリがブワーッと巻き上がってたまったものではなかった。

何時間か走ったあと、瀬底島ビーチに到着した。
数時間も連続してバイクに乗ったは久しぶりだったので、尻がしびれた。

ビーチの近くに、テントを張るのに良い広場があり、実際数張りのテントがあった。
立派なシャワーとトイレの小屋もある。
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1997年5月19日
午前かなり激しい雨。
頭痛が激しい。
しかし、テントを打つ雨音はなぜか快かった。
テントで寝転びながら、パンなどを食べる。
午後には雨は上がり、頭痛も薬で何とか治まった。
数人の友人宛てに手紙。
タバコを吸う友人に、沖縄タバコのHI-TONEとVioletを2箱ずつ購入。
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2009/1/5

沖縄本島上陸  1996〜97原付日本一周沖縄編

1997年5月15日

女の子チャリダー2人は、近くの公園でテントを張ってゲリラキャンプするという。
自分もそれに加わる事になった。

5ヶ月振りに本当上陸。
国道58号線を走り、目当ての公園に向かう。
しばらくして公園に到着。
2人はすでに到着していて、テントも張ってあった。

天気は良く、自分はテントを張るのが面倒になり、ベンチで野宿。
蚊取り線香を焚いて、マットとシュラフを出し、寝支度を整えた。

宮古で見かけた、ママチャリダーのお兄さんもひょろりとやってきた。
「こんばんはー」
と、互いに言った。YMさんという。
北海道生まれで、冬は西表製糖で働いていたと言う。

荷物がとてもシンプルで、余計な物がない。
旅装備ぼ王道をいっているなと思った。

女の子チャリダーの一人はすでにテントに入って休んでいたので、3人で夜空の下でしばらく話した。

あっという間に時計は深夜1:00を過ぎていた。
フェリーの出航が早いと言う事で、お開きに。

自分は横着が祟って、蚊取り線香を焚いたくらいでは、蚊が耳元で「プーン」と寄ってきて、うるさくてほとんど眠れなかった。


5月16日
ほとんど眠れぬまま、ムックリとシュラフから出る。
日が出たところで、皆で記念撮影。
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那覇港で女の子チャリダー2人の見送り。
大島海運のフェリー「あけぼの」だ。

ここで、バッタリ。
与那国島で出会ったカメラマンの女の子と再会。
片方のサンダルの鼻緒が切れて歩きにくそうだ。
「あら・・・また会いましたね。よく会いますね。」
彼女が
「そうそう、クバもちがあるんだけど食べます?もちとは違った味で美味しいから。」
そこで、それをもらった。
彼女もこの船に乗船するらしい。

程なくして船が出港した。
向こうもこちらも手を振った。
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また見送りだなあ・・・
たまには見送られてみたいなあ・・・

自分はこの後、瀬底島に行くことにした。
ママチャリダーのYMさんもここに行くかもしれないという。
また会いましょうと言って一旦別れる。
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2009/1/1

2009新年  日々雑記

新年明けましておめでとうございます。

tea cupブログに移行して2年目に入ります。
回想録、遅々として進みませんが(汗)引き続き書いていきますので、よろしくお願いします。

皆様にとって、実りある年となりますように。

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2008/12/16

フェリー飛龍で  1996〜97原付日本一周沖縄編

1997年5月15日
有村海運のフェリー「飛龍」。
とにかくきれいな船だ。
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飛龍は全室寝台仕様で、その割りに値段は安い。
2等寝台にも各部屋にシャワーとトイレが付いている。
これはすごい。

琉球海運の「えめらるどおきなわ」は、重油臭いし汚いし2等料金で雑魚寝は仕方無いにしても、シャワー室が付いているのに使う事ができなかった。

これで1000円程の差しかないのだから、絶対飛龍の方が良い。
乗って良かった。

8:15出航。
予定より45分遅れだった。

ようやく自分も動き出したなというのが正直な所。

きれいな船内で、ルンルン気分になりながら、あちこち見て回った。
広いロビー。
船である事を忘れさせる。
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米原キャンプ場で一晩話した、2人の女の子チャリダーの一人と船内で会ったので、近くのソファに座って、旅話などをした。

「飛龍」は、名古屋→大阪→石垣島が主な航路だが、台湾にも行く。
2人は台湾に7日間行っていた。
台湾はとても暑かったようだ。
テント泊はせず、全て宿に入って過ごしたそうだ。
一泊1500〜2000円くらいらしい。
彼女は小さいスケッチブックに絵を描いていた。
色鉛筆で着色してあって、描いた場所について感じた事などが書いてあった。
楽しかった様子がにじみ出ていた。

12:00頃、宮古島の平良港に入港。
一時下船可能と言う事で、せっかくだからと船を降りて、ちょこっと港の近辺をブラブラして船に戻る。

欄干から船の搬入口を見たら、ママチャリの旅人らしき人が。
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おお、気合入っとるなァ。

船は少し遅れて出航。

19:00頃、船内アナウンスで食堂が開くというので、これもせっかくだからとヤシガニ博士と食べに行った。
メニューも船の食堂としては割とあって、金がもっとあったら、定食でも食べたいなと思った。
その中から、700円のカレーを食べる。
サラダにゼリー、福神漬けにカレーと言う内容。
なかなか美味しかったと思う。

行きに乗った琉球海運の食堂のメシは食べなかったが、あまり美味しそうでなかったし、高いので食べる気も起きなかった。

夕食を終え、部屋に戻り、那覇入港までの時間も近づいてきたから、手荷物を片付けた。
しばらくしてロビーに行き、そこの窓から外を見たら那覇の街の光が見えた。

21:00を回り、入港するので準備してください、と言う内容のアナウンスがある。
荷物をまとめ、ロビーで待つ。

女の子の2人組チャリダーもロビーに来た。
今夜はどこで泊まるのか?と聞いたら、適当な公園でテントを張ると言う。

「良かったら一緒にどうですか?」
と言ってくれたので、そうすることにした。
地図を見て、場所を決め、後で現地で会う事に。

那覇港に入り、本島の土を踏む。
5ヶ月振りの大移動だ。
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2008/12/14


1997年5月15日

5ヶ月振りである。
長かった八重山での生活。
AUさんと逢わせてくれた波照間島。
僕に生きる事の楽しさを教えてくれたジュンさんや西表の加藤さんなどの個性あふれる人達。

色んな思い出を作ってくれた八重山の島々に感謝。

朝の5:30頃目覚めた。
米原キャンプ場ともお別れだ。

僕は人や土地から別れる時には、なるべく
「さようなら」
は使いたくないと思っている。
「それじゃ、またね。」
の方が、好きだから。

しかし、今日は「さようなら」という言葉が頭に響いていた。

さようなら、って言うのは、僕の中では、もうここには二度と来ない、その人とは二度と会わない、という決別的な意味を持っている。

本当はそんなに重い意味の言葉ではないのかもしれないが・・・

自分はいつの間にか、この言葉にそういう意味を与えていた。

ではなぜ、今、自分の頭の中で「さようなら」と響いているのか?
滞在期間が長かったから?
過去の消極的過ぎた自分に対して?


さて、パッキングは昨夜すでに終えていたから、6:15頃出発する事にした。
辺りはまだ薄暗い。
皆がまだ眠っているキャンプ場の中で、エンジンをかける。
7号棟に行き、テントの外からZ君にあいさつした。
テントの中から眠そうな声で
「K君本当に行っちゃうんだ。気をつけてね。」
と言ってくれた。

米原を出た。

於茂登トンネルをくぐり、通い慣れた道を走る。
辺りの風景を見まわした。
特に何も考えてはいなかった。

6:50分頃には港に着いた。

良い船だと評判が高く、あこがれていた有村海運の「飛龍」に乗れるのだ。
とてもきれいな船だ。

ターミナルにはキャンプ場で知り合った、豊橋のセロー乗りの「ヤシガニ博士」がいた。
キャンプ場にいる時に彼が獲ったヤシガニ。
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彼とのんびり雑談しながら待っていた。
そろそろかな、と言う事で船の搬入口までバイクを走らせた。

そうしたら、米原で一晩話した2人の女の子チャリダーがいた。
彼女達とは、自分が与那国に行く前日の夜にOKB君とちょこっと話しただけだったが、向こうは自分の事を覚えていてくれて、手を上げてあいさつしてくれた。
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2008/12/13

竹富島、そして八重山脱出の決意  1996〜97原付日本一周沖縄編

1997年5月14日

竹富島に行った。
往復券を買った。1100円。
船は30分毎に出る。出航すると10〜15分程で着いてしまう。

港に着くと、やたら観光の車が客を待っていて、これを見たら意地でも歩いてやろうと思い、一人ズンズンと歩き出した。

今日も天気は良く、10分も歩くとたちまち汗が吹き出てきた。
サンエーで買った1.5リットルのコーラがみるみる減っていく。

竹富島集落
コンクリートで出来た展望台からの眺め。
白い道、サンゴの岩を積み上げた塀、赤い瓦屋根に漆喰。
いわゆる「沖縄らしい景色」というやつです。
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星の砂があるというカイジ浜に行ったが、砂は見つからず。
地図に「ンブフル」という変わった地名がある。
なんでも、水牛の鳴き声が「ンブフル」と言っていたのが、そのまま地名になったのだとか。
日陰で休む水牛
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ハイビスカス
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浜から東桟橋まで砂浜伝いに猛烈に汗をかきながら歩いた。
「ビー玉」と呼ばれるガラスの浮きや貝などなどを拾いながら歩いた。
とにかく暑かった。

コーラはすでに飲み尽くし、ビジターセンターで空きビンに補充した水はコーラ臭かった。

どの島にも言えるが、浜に打ち上げられる漂流物がとにかく多い。
「ビー玉」はガラス製のもあるが、もっとも多いのはプラスチック製のやつだ。
そしてペットボトルがものすごく多い。
台湾や韓国から流れてきたのだろう。
漢字だらけの物や、ハングル文字の物もあった。

14:15発の船に乗り、竹富の1日観光を終える。
明日のフェリーの切符を買い、八重山を「脱出」する準備を整えた。

まだ、行った事のなかった、伊野田キャンプ場と、バンナ公園も見た。

米原キャンプ場に戻り、片付けを始めた。
サボさんもここを出て、西表の加藤さんの所に行くらしかった。

普通は、暗くなったらテントを張るのに、今回は逆だ。
なんだか妙な気分だった。

Z君のいる7号棟へクマさんと行った。
「K君本当に行っちゃうの?」
と何度も聞かれた。

その夜、Z君とクマさんと自分の3人で将来の夢を語り合った。

クマさんは、みんなの心に残る絵を描きたいと言う事と、童話を創りたいという事だった。

Z君は、10年、20年後に再びこの3人でどこかで会いたいと言う事。
そして、オリンピックに自転車で出場したいと言う事。
それから幸せな家庭を作りたいという事。

僕は、100年後、さらにその後に、ああ、こんなオルガンを作った人がいたんだ、と言うオルガン作りになりたいと言う事。
自分の好きな飛行機を自由に操って、世界の空を飛んでみたいと言う事。

何だか、現時離れした夢だが・・・

チビチビと、水で薄めた泡盛を飲んで、夜は更けていった。
テントは畳んでしまったから、唐人墓(とうじんばか)の東屋か、ターミナルにでも行こうかと思ったが、西表へ出発したサボさんの残したブルーシートのフライの下で野宿することにした。

クマさんと自分の2人で、キャンプ場の売店のテーブルに腰掛けて、恋話などした。
自分が波照間でAUさんを好きになった時のように、日増しに好きになっていく様子、好きな女性が目の前にいると、ドキドキしたりする気持ちは同じようで、とても親近感が湧いた。
深夜まで話して、その後眠る。
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2008/12/13

燃料フィルター交換  日々雑記

ジムニーを知り合いから譲ってもらって早8年。
JA71後期型は初年度登録が昭和63年だから、20年前の車です。

整備基準では、燃料フィルターの交換は4万kmごととなっているのですが、整備記録簿には、一度も交換の記録がない。
てーことは、18万kmに至る今まで無交換だったわけです。
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走行に重大な影響はないですが、でも少々はあるかもしれない。
気分的によろしくないので、部品を注文して自分で交換。
ボルト締めなので、作業自体は簡単でした。

んで、取り外したフィルター。
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どんな状態なのか、中味を見たくなった。
中に入っているガソリンが揮発して安全になるまで、しばらく屋外で放置。

カシメてあるので、鉄のこでカット。
んで、中味とご対面〜。
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うひゃ〜汚いですね〜。
本来、波々になっている所は白色なんですが。
さすが20年、18万km分のガソリンを通していただけに茶色くなってます。

驚くほど高価な部品ではないので、今度からはちゃんと交換してあげましょう。
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