大日本教育会・帝国教育会の群像

日本初の全国教育団体であった大日本教育会・帝国教育会について、その会員の履歴を叙述し、人間の集団としての実像に迫る。大日本教育会・帝国教育会研究者の白石崇人による長期的プロジェクト。

 

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投稿者:白石崇人
唐橋さま、大変貴重な情報提供ありがとうございました。このご好意には、いずれ唐橋信言氏の記事を作成することでお返ししたいと思います。最近は非常に多忙のため、すぐにというわけにはいきませんが、気を長くもってお待ちくだされば幸いです。
投稿者:唐橋在宣
                  (3/3)
 現在の法務省の前進・司法省、それ以前の刑部省では、長官など役職職員は公卿が当たっており、官位制で長官が従三位以上の階位の公卿などとなっていました。信言も、学習院で教官をしていたこと
や、華族、階位(最後が正五位)を持っていたことから、明治時代に入っても旧慣例が残っていて判事として、教育界から法曹界に入っていったのではないかと思っています。
 学習院(当初、学習所)は、京都で公家の教育機関として弘化4(1847)〜明治元(1868)年まで開設されていました。唐橋家は、菅原道真の後継、菅家6家の一つで、紀伝道を引き継ぎ、その発展に貢献し、文章博士を歴代輩出してる学者の家系でした。当然、信言も幼少期からそうした教育を受けていたはずです。当然、信言も幼年期には、京都の学習院に通ったと思われます。
 明治2(1869)年、天皇が東京に移られて、当時19歳であった信言も家族と共に、東京に移り住みました。その後、明治10(1877)年10月、神田錦町に華族学校として、新制「学習院」の創立当初に一生懸命だった気持ちは、かつて京都で自分が学んだ学習院の再興でしたので、理解できることです。

 白石様の記述にありますように、信言が大日本教育会の前身・東京教育協会のメンバーであり、明治17(1884)年まで大日本教育会会員で活躍していたとありました。信言は、当時、35歳の働き盛りの年齢です。学習院創設当時に、教育に熱中し、その後、そう長くない時期に法曹界に移ったのでしょう。教育者としての期間が短かったため、資料などが少ないのだと思っています。

 以上の様なことくらいで、大した補足ができませんでしたが、何かのお役に立てば、ご利用下さい。

          平成21年6月23日
          唐橋在宣

投稿者:唐橋在宣
                  (2/3)
 先に養子として唐橋家に2人の兄がおり、信言は父・在久の第一実子でありながら唐橋家の3男として唐橋家を嗣ぐことなく、生後直ぐに父を亡くし、母親に育てられました。
 明治維新、新政府設立に活躍した兄達を見て育ちました。明治維新の年には18歳になっていましたので、直接的ではないにしろ、兄たちの影響を多分に受けたことでしょう。

 信言の子供は3人の女子でした。3姉妹のうち、一女、三女は早く亡くなったのですが、二女幸子は、昭和6年6月、修学院離宮・林丘寺(尼門跡)に出家し、唐橋滋正として昭和50年代まで長生きをしていました。二女幸子・滋正は、生前、自分の両親、早くして亡くなった姉妹ために、新宿区副都心にある「常円寺」に墓を建立していました。残念ながら、跡継ぎはなく、信言の遺骨は他の唐橋の縁者の墓と共に寺院内の墓地に埋葬されています。
 信言については、晩年、判事として活躍していたようですが、判事としての仕事内容、詳細は不明です。判事時代の記録は公文書があると思いますが、詳しく調べたことはありません。ただ、乃木希典の遺言に署名をしていることは、大正元年当時、判事であったことは確かなようです。
 京都の林丘寺を訪れ、二度ばかり滋正に会ったことがありますが、既に高齢でしたし、両親について話題になるような話はありませんでした。滋正と同年代の私の祖母は94歳まで長生きしましたが、信言が判事、浦和地裁の裁判官の時代もあったと話していました。信言は学習院の教官の時期がそう長くはなく、判事としての時期が長かったのではないかと思っています。
 信言が法曹界に移った経緯については、明確ではありませんが、当時の時代背景から、次の様に考えています。
投稿者:唐橋在宣
                  (1/3)
 メールを拝見いたしました。返事が大変遅れ、申し訳ありません。
 唐橋信言のことについて、記載して頂いたことに感謝しています。先のメールでもお伝えしましたとおり、家系を引き継ぐ家族がいませんでしたので、名前を呼ばれることもなく寂しいだろうと墓参した際は名前を読み上げてお参りしてます。こうして活字となって話題にしていただいていることも、さぞかし喜んでいることでしょう。
 さて、私の分かる範囲で、少しの補足事項を整理し、お送りします。
(コメント記載に1000文字制限があるようですので、分割して送信します。)

唐橋信言(ノブゴト)(嘉永3(1850)年5月3日生〜
    大正15(1926)年11月7日没)
    判事、正五位勲4等、子爵唐橋在久(少納言    正四位下侍従、文章博士)の三男。
  夫人 亀子(〜大正3年11月7日没)
        娘3女(久子、幸子、盛子)
  長女久子(明治28年1月15日没)
  次女幸子(滋正)(明治23年2月22日生、三    輪田高女卒、昭和6年6月慈正に改名)
  三女盛子(大正10年4月19日没)

 信言は、京都の堂上公家の家に育ちました。父を早く亡くし、母の手で育てられました。
 信言には、年の離れた在光(1827年生、正三位式部大輔)、頼徳(1835年生)の2人の兄がいました。在光は、父親在久の弟でしたが、在久の嗣子として子爵唐橋家を継ぎ、二男頼徳は豊岡治資の第二子で唐橋在久の養子となり、その後子爵錦小路頼易の養嗣子となり、錦小路頼徳と改名していました。2人の兄は、共に安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加し、「安政八十八廷臣」の一人と云われていました。更に、錦小路頼徳は、政変による失脚後、三条実美、壬生基修らと共に長州藩に落ち延び(「七卿落ち」の一人)、1864年、山口県長門にて29歳の若さで客死しました。2人の兄は幕末の尊皇攘夷派公家として明治維新に至るまで活躍していました。
投稿者:白石崇人
唐橋在宣さん、大変長い間そのままにしていて申し訳ありませんでした。このブログには新着コメントの欄がないもので気づきませんでした。
縁者の方からの貴重なコメント、本当にありがとうございました。
唐橋信言は、大日本教育会の前身・東京教育協会の中心メンバーの一人として目されます。また、明治17(1884)年まで大日本教育会会員でした。創立期の重要な会員であったと思われます(もちろん創立期の学習院教員としても重要です)。
その他にも何か情報がありましたら、いつでもお寄せ下さい。コメントありがとうございました。
投稿者:唐橋在宣
最近、この記事を見るまで、唐橋信言が明治初期に学習院の教師をしていたことを知りませんでした。晩年、判事をしていたようですが、学習院院長をしていた乃木希典の遺言状に署名をしていることも理解できました。詳しい人物像が分からずにいました。彼は子供が娘3人であったため、跡継ぎは無く、修学院離宮林丘寺の尼をしていた二女が新宿区の寺に墓を建立していましたので、今は唐橋家縁者として管理しています。

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