2017/6/20 | 投稿者: naoko

揺れる想いを語り合えるまでの70年

NAOKOです。

著者の吉川麻衣子さんは私たちの仲間の一人です。この界隈の色んなイベント
に沖縄からひょいと飛んできてくれる方です。先日の自由音楽会にも参加して
私のリクエスト曲をマイク片手に歌って下さいました。嬉しかったです。
その吉川麻衣子さんが、今月、タイトルにある著書を出版されました。
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72年前(1945年)の6月は重く悲しい結末で終わった沖縄戦があった月です。
出版元創元社は意図的に6月発行を選んだのかも知れないと私は思いました。

写真に見えるように表紙の帯には
「私達の言葉を、戦争を直接経験していないすべての世代の人たちへ」
との呼びかけ文に続き、
これは単なるインタビューではない。時を経て、場と仲間を得て、初めて
言葉になった人々との想いの記録である。と内容を象徴する言葉があります。

また裏表紙には、本文からの抜粋で
(これほどの重い苦しみを「語る」「言葉にする」には長い時間が必要です。
「語らない」「語りたくない」という言葉と同居する「語りたい」「聞いて
ほしい」という気持ち。その気持ちを感じ取って寄り添う。
裏にあるその人にとっての本質の部分が動き出すまで待つ。
時が熟したと感じたその時に背中をそっと押して差し上げる。
これは心理的支援の現場で培ってきた勘のようなものですが、私はつかず
離れずの距離感を保ちながら、そのような「こころ」のやりとりを続けて
きました。)
と記されています。

内容全体を通して静かな人間愛に満ちていて、著者の人柄を感じました。
そしてご自身のからだからにじみ出る豊かな文章力が読み手である私を
惹き付けて全体190頁を一気に読ませてしまいました。

以前このブログにSHOJIが『チェルノブイリの祈り』の著者スベトラーナ・
アレクシェービッチが人々にインタビューするときの姿勢が単なるインタ
ビューではなく人々の想いに触れることを最も大切にしていると書いてま
いましたが、それと相通ずるものがあると思いました。
ともかくこの本を手にした私は頁をめくり続けてしまいました。
そして何度も涙してしまいました。

と言うのもきっと私自身が沖縄戦争の時期に7歳で、この本に登場するおじい
おばあとあまり年格好が離れていないということも感情移入した理由だったと
思います。また沖縄戦を前後して当時住んでいた大阪でも米軍の襲撃を受け、
そして終戦をむかえたという体験から気持ちが重なったのだと思います。
けれども私の方は終戦後の辛い生活苦難体験はあったものの、家族や家屋の
直接の被害は受けていないので、著書に表現されているような言葉を絶するよ
うな直接的な多大な内的外的の傷つき体験をせずに終戦をむかえてはいます。


「言葉になるのに60余年必要だった。」というおじいおばあのことばや、

多数の尊い命が失われた沖縄戦。残された人の人生の中で、大切な人が「沖縄
戦」で亡くなってしまったという事実。一瞬、一寸が生死を分けたあの時、あ
の人を助けてあげられなかったという嘆き、生き残ってしまったという絶望を
抱えつつも、70余年歩んできた人びと。語ることで示したい、あの人が生きて
いたことの証。そして、二度と同じ過ちをおかさなぬよう祈りを込めて〜〜〜
                             (まえがき)
などが著者を執筆へと突き動かした動機になっています。

多くの方々に読んでいただきたいと私も願っています。

(創元社 6月23日出版 1600円+税
著者は沖縄県那覇市生まれ、琉球大学法文学部卒業
九州産業大学大学院国際文化研究科博士課程満期退学 博士(文学)
臨床心理士 現在は沖縄大学文学部准教授  )

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2017/5/1 | 投稿者: naoko

NAOKOです。

4月29日、もう恒例になっている「わたしたちの自由音楽会」を開催した。        
晴天に恵まれた。10時半から器機類をTAKAMATSU研究室のある留学生センター
から会場(九州大学箱崎キャンパス50周年記念講堂2階ファカルティクラブ)
まで運ぶことからいつも音楽会は始まって行く。
運搬設営に協力下さったみなさまありがとうございました。

そして楽器、機材の設営が終わった頃にはもう昼時になる。
毎年こころづくしの持ち寄りの料理が集まるのです。
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手の空いた方々から立食会のようなランチタイムに入ります。

さあ始めるよ、の声かけで13時から、今年初めての全体リハーサルが始まる。
結構真剣にやるのですが・・・この界隈の方々が集まるとゆるりとゆとりを
持っているかのような風景になります。
ソロ担当やボーカルの打ち合わせ。楽譜のチェックなどをしながら・・・。 

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今回のリクエスト4曲を相談しながら練り上げていく、それぞれの曲を2回
くらい合奏したところで、少し休憩に入って・・・・もう本番。

私は今回自分のための曲「この広い野原いっぱい」をリクエストさせても
らった。ベルをはじめ全員が演奏し、ソロパートやソロボーカルが加わ
っていく流れを感じていると、もうリハーサルの段階から感動してしまう
自分を感じていた。
そしてこの曲をリクエストした意味が徐々にもっとはっきりしてきた。

リハーサル後の本番のプログラムでは曲の前にMCが組まれている。
その時に言いたい言葉が出てきた。
それは終戦直後の昭和20年代、日本全体が混乱し、各家庭は貧困で苦し
んでいたこと。その時期に不安を抱えながら思春期や青年期を過ごした自分
のことを語るのだろうと思った。
そして今、平和なこの歌をみんなで演奏できていることに感謝したいのだと。

本番の時間になった。
本番のプログラムを進行してくれるのは例年NAGANO & MOTOYAMAなのだが
今年はMOTOYAMAさんは英国研究留学中。それでも横にいつもの相棒がいる
かのようにしてNAGANOさんは進行されていた。さすがイメージ豊かな方です。

プログラムは
・SHOJI & NAOKO の挨拶
・1曲目「岬めぐり」      MCはTAKAMATSU 指揮TAKAMATSU
・2曲目「365日の紙飛行機」   MC MATUMOTO 指揮MATUMOTO
・3曲目「この広い野原いっぱい」MCはNAOKO   指揮IMABEPPU
・お祝いコーナー        還暦 傘寿
・4曲目「Let it be」      MC SHOJI   指揮KITADA

二次会では先ずボブ・ディランの曲をギター演奏と共に格好良く歌い上げ
てくれたのはKIMURAさん。
次に京都から来て下さったINOUEさんのピアノを囲んでチャップリンの
ライムライト他一曲をサックス、クラリネット(二人)の4人で合奏をして
くれました。
5月4日には青森でコンクールがあるSIHOが今年も肝試しに津軽三味線を
弾きました。ちなみに昨年は高校の部で団体優勝したそうです。、
シュガーランドの名コンビが今年は赤いスイトピーを聞かせてくれた。
後は次々と色んな人がマイクを持って自己紹介やスピーチをすることにな
って、音楽会なのに色んな方のことをもう少し知ることができました。


今年も総勢、お子さんも入れて47,8人が集まることが出来て本当に嬉しい。
自由にありのままに、音を楽しみ、つながりを持ち、暖かい賑わいや
盛り上がりを持つことができた一日だった。
これこそ本来の音楽ではないかという説を唱える方もあります。

さて来年も同じ会場で多分4月29日に開催出来そうです。
関心が持てるようでしたら、家に眠っている楽器を持って
或いはご自分の声を使って参加してみませんか。色んな打楽器などは会場
にありますので気持ちにしたがって自由に演奏できます。
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2017/3/27 | 投稿者: shoji

SHOJIです。

 チェルノブイリ →フクシマ →玄海原発再稼働 →糸島二丈30q圏内
→原発廃止

1 チェルノブイリとフクシマと玄海原発

2011年、NAOKOとシベリヤ鉄道の旅に出た。ウラジオストク駅を起点にモスクワ
まで9000qの中間地点イルクーツク駅で一旦下車して、二日間バイカル湖の町で
過ごした。

この時色々とハプニングがあった。当時のブログで既に記録しているので省くが
ホテルから予約してもらっていたロシアのタクシーが約束時間に来なくて、結局
イルクーツク駅に着いたのは列車が出発する30秒前くらいだった。
ホームへの階段を登り着いてからすぐの列車入り口で(ロシア鉄道は一両ずつ車
掌が配置されていて客が乗車の時には指定席のある最寄りの乗車口から切符を見
せて乗ることになっているが)、女性車掌が我々二人をみて待ってくれたが、そ
の時大声で、“フクシマ、フクシマ”と叫んで迎えてくれた。
“ニホン”とか“ジャパン”とか叫ばなかった。どうしてだろう?

「チェルノブイリの祈り」を読んで、このときの“フクシマ”の意味が充分わか
ったのである。
つまり「フクシマ」は「チェルノブイリ」に次いで世界で2番目に起きた大原発
事故だったのである。だからロシアの人たちは「フクシマ」をよく知っていた
のである。



2017年2月19日は九州電力玄海原発再稼働に向けた動きが本格化する中で、
福島原発告訴団長武藤類子氏の「お話し会」が糸島市健康福祉センター開かれた
(私は不参加)。

武藤氏は養護教員だったが「チェルノブイリ原発事故」を機に反原発運動に携わ
るようになった。『福島原発告訴団』を結成して東京電力の幹部らの刑事責任を
追求している。3月17日、前橋地方裁判所が賠償を認める判決を出したばかりで
ある。


私が「チェルノブイリの祈り」を読んでいなければ、ピンと来ない新聞記事だっ
たと思う。「チェルノブイリ」はベルラーシという遠い国の事件であり、私自身
と身近でない事故という感覚がどこかにあった。それがやっと「チェルノブイリ
→「フクシマ」→「玄海原発再稼働」→糸島二丈30q圏内という私自身の
体験の中でつながったという感覚である。


U 原発は経済性に乏しい!!

東京電力は福島原発事故の処理で21兆5千億円の費用が必要であるとし、さらに        
廃炉に向けた作業が進まず、見通しすらたっていない。首相が東京オリンピック
招待演説で「アンダーコントロール」と叫んだ現実とは程遠い状況にいる。
しかし国は依然として原発推進策をとっている。原発推進国家事業に乗って事業
展開した日本の超優良企業「東芝」は会社存続の危機に直面していることも最近
の新聞に出ていたことである。


V 日本の現状は「戦後」ではなく「災後」である

吉見は西日本新聞の時評(3月18日)の中で、震災後の日本の反応がきわめて鈍く、
今や「戦後」でなく「災後」という新しい状況として認識することが重要である
と説いている。社会の進む方向の全体ビジョンが見えないと指摘している。
しかし、これは大変な作業なので、アレクシェービッチは「ソ連社会主義の崩壊」
と「チェルノブイリ原発事故」はソ連邦にとって大事件であり、新しい事態であり、
従来の科学的知識でも対応できない困難な時代に入っていると指摘している。

W 原発廃止と太陽光発電・風力発電の活性化

吉見は日本の社会組織の問題を指摘しているし、これも納得できる。
しかし一方で私は、原発廃止運動と太陽光発電の活性化、水素自動車の推進こそ、
21世紀の地球を救い、自然と共生できるアプローチであると信じている。
3.11をきっかけに日本各地でエネルギーの「地産地消」が進んでいるのが楽しみ
である。


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2017/3/11 | 投稿者: shoji

SHOJIです。
        
      スベトラーナ・アレクシェービッチ著
    「チェルノブイリの祈り」〜未来の物語〜を読んで

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最近、NHKでもアレクシェービッチの特集があり、YOSHIKAWAさんが録画して
NAOKOに送ってくれた。この記録文学(ルポルタージュ)の傑作を読んで、
いろいろ感じたことがある。とりあえず私の感想を書いてみることにした。

彼女は、ベラルーシ文学や現代ロシア文学になかったドキュメンタリーを
手がけた。アレーシ・アダモービッチ(作家)との出会いが契機になっている
という。
「真実をとらえること、これこそ私がやりたかったこと」「つまり人々の声、
証言、告白、こころの記録というジャンルを私はすぐ自分のものにしました。
私の内にあったものすべてが生かせることが分かったのです。作家であると
同時にジャーナリスト、社会学者、精神分析家、伝道者であらなければなり
ませんでしたから。」

なるほどこの本には、こうした彼女の才能がすべて表現されている感じがする。
この本はすべて彼女とチェルノブイリ体験者とのインタビューの記録であるが、
「見落としをされた歴史について」ー 自分自身へのインタビュー ーという
序章を読むと本書を書いた理由が分かる。

この本はチェルノブイリについて書いたものではなく、21世紀の挑戦、人は
あそこで、自分自身の内に何を知り、何を見抜き、何を発見したのだろうか、
自分自身の世界観に?この本は「人々の気持ちを再現したものであり、事故
の再現ではない」と強調している。
「すべて、はじめて明らかにされ、声に出して語られたことです。」

著者は原発従業員、科学者、元官僚、医学者、兵士、移住者、サマショール
(強制疎開の対象となった村に自分の一存で帰ってきて住んでいる人のこと)
など幅広い声を集めている。

一章 死者たちの大地   ー 兵士の合唱
二章 万物の霊長     ー 人々の合唱
三章 悲しみを乗り越えて ー 子どもたちの合唱

と整理している。
しかも序章と最終章に当たる部分は「孤独の人間の声」と題をつけて、放射能
を浴びて死んだ消防士の妻、リュドミーラ・イグナチェンコ、同じく事故処理
作業員のワレンチナ・チモフェエプナ・パナセビッチの二人の面接記録を掲載
している。

この二つの記録は妻の夫への愛の記録であり、「リュドミーラは、私があなた
に話したかったのは、愛について、私がどんなに愛していたか、お話ししたん
です」で結んでいる。


この二つの記録はカウンセリングやグループ体験をしている私には、こんな記
録を書いてみたい!と思わせる迫力というか、真実性が充ち満ちている。
本書の解説を書いている広河隆一(フォトジャーナリスト・Days Japanの編集
長)の言葉で締めくくっておきたい。

「リュドミーラの姿勢は、人間に力を与える。ある意味では聖書より、
仏典より、深い勇気を人間に与える。このような奇跡のような仕事を
リュドミーラとアレクシェービッチの二人は語る人とそれを書き留める
人という関係でなしえたのだ。」

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2017/2/14 | 投稿者: shoji

SHOJIです。

<今、読んでいる本>
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2015年ノーベル文学賞:スベトラーナ・アレクシェービッチの
『セカンドハンド』の時代  - 赤い国を生きた人々 -

・彼女は私が惹かれている作家の一人である。
1948年ウクライナ生まれ。ベラルーシ在住。
昨年11月に来日し、福島を視察したり、東大で講演したりしている。
戦争体験者や原発事故の被災者ら困難な状況に生きた人の声を面接して
記録文学(ルポルタージュ)として本にしていることで有名である。
著書に「チェルノブイリの祈り」「セカンドハンドの時代」など。

・私は昨年来、この作家の新聞記事をスクラップしている。
池澤春樹「終わりと始まり」や「チェルノブイリの祈り」(朝日2016.4.16)
など参考になった記事である。

<なぜ今、アレクシェービッチに惹かれるのか>

@「ルポルタージュ」と「ナラティブ」
TAKAMATSUさん、MURAKUBOさんが注目している「ナラティブ」や社会構成主義      
に私も関心を持っている。
両氏の講演会も開いて話を聞いてきた。
「ナラティブ」と「ルポルタージュ」とどこが異なるのか、気に掛かっている。
調べてみたい。

A「面接はしない、ただ話を聞くだけ」と書いているアレクシェービッチ。
修論などで「半構成面接」と呼ぶ面接記録を私もよむ機会が多い。
小野正嗣はこういう様式のものを「文学的傾聴」とよんでいる。(朝日)
この作家の傾聴能力は抜群らしい。作品を読んでみたい。

B「個人の真実」の探求
この点はロジャースの人間論とつながってくる。
アレクシェービッチは
「(私は)人の心の中で社会主義がどう生きていたかを。
人間というこの小さな空間に・・・・・ひとりの人間に・・・。
ひとりの人間に・・・私はいつもひかれている。
実際にすべてのことが起きているのは、その中だから」と言っている。
(「セカンドハンドの時代」3頁)

これを読んで「エンカウンターグループ」や「カウンセリング」という言葉は
ひとかけらもないが、ロジャースの人間観と同質の「個人の真実」を探求する
迫力を感じる。
「個人の真実」とは何か、ここに焦点を絞って社会の実際に迫るこの作家の
「不屈」の精神に身震いしてしまったほどである。

C「多声」に耳を傾ける意義
「私も加害者、被害者、共産主義者、民主主義者、などすべてに言葉を与え、
それぞれが自らの真実を語るのです。」とのべている。

これらの「個人の真実」が集まって、時代の姿が作り出される。
一人の主人公がすべてを知っているような設定はもはや出来ないのです。」
とも語っている。


私は21世紀は自己実現の社会と書いてきたが、一人一人の世界を浮彫にする
ルポルタージュとして、興味深く読んでいるところである。


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