アルジェリアJOB(現地駐在)期間(1977.8〜1979.6 )
◆1978年(昭和53年)アルジェリア・続4
■「オアシスの街」:
現地に再駐在して3ヶ月が過ぎた頃、現場の状況も落ち着いてきたので、気分転換のために同僚達数人と一緒に現場から200Kmほど離れた最寄の小さなオアシスの街に出かけてみたが、途中の風景は殺伐とした景観だったが、現地に駐在してから初めての外出で久しぶりに「緑」を見た。
@「ラグワット」
そこは砂に汚れた小さい「ラグワット」という町だったが、その一角には小さなナツメヤシの林があり、それは薄汚れた緑ではあったが、私は何とも言えない心地よさと安らぎを感じたものだった。ただ、日本での私は、周囲の緑などに全く感心がなく、身の回りに何の木があるか注意して見た事もなかったが、このオアシスの緑を見てから、日本の緑は何て色鮮やかで美しいのだろうと気づいて感心したものだった。
その日の私はホテルのロビーでコーヒーを飲みながらナツメヤシのくすんだ緑を眺めるだけで帰ってきたが、それ以来、私は度々このオアシスの町に出かけて“ささやかな緑”を楽しんだ。そして、緑の有り難味など感じた事の無かった私の心に、緑の有り難さが強烈な印象として残った。
尚、私も日本に帰国してからは周囲の樹木や草花にも目が行くようになり、自然の大切さや、緑の環境保全に関心を持つようになった。そして、このアルジェリアでの緑欠乏症の経験が、退職後の岡山移住の要因となった。
@「ガルダイヤの街」:
現場から約400Km南にガルダイヤよりもかなり大きなオアシスの街「ガルダイヤ」があった。ここはサハラ砂漠のほぼ中央に位置し、幾つか大きなホテルもあり、また、軍隊相手の相手をする公設の赤線地帯もあった。
月に1度、日揮(株)はキャンプから「ガルダイヤ」までの買い物バスを定期運行していたが、このバスを利用する大半の日本人職人達はここの赤線地帯が目的でバスが現地に到着すると競って赤線地帯に直行していた。尚、アルジェリアはイスラム国家で戒律は厳しく、姦通罪があり、不倫等で有罪となった女性は各地の赤線地帯に送られるそうだ。私もこの“赤線地帯”を覗いた事があったが、そこは数棟の汚い建物があり、建物内部の薄暗い通路の両側には小部屋が並び、その通路には順番を待つ日本人職人達が並んでいた。さすがに日揮(株)のスタッフにはこの“赤線地帯”を利用する者はいなかったようだ。
私達はバスではなく、自前の車で「ガルダイヤ」に行き、バザ−ル等を散策して買い物をしたり、ホテルで食事(毎日キャンプの不味い料理を食べている私には現地の主食である“クスクス”が美味しく感じられた)をして、街外れの小さな店で闇のワインを買い付けてからキャンプに戻るパタ−ンが多かった。
尚、私はここで買い求めた「水晶の原石」、「羊毛の絨毯」、砂漠の結晶石である「砂漠のバラ」等を日本に持ち帰った。
■休暇・帰国
この現場は原則として1年に休暇 (1ヶ月) が2回取れたので私は7月に休暇を取って日本へ帰国したが、現場を出発間際に肝炎にかかった職人さんを日本まで送り届けるように頼まれ、2人連れの帰国となってしまった。
ただ、予約していたパリから日本までの航空券を受け取るためにル−ブル美術館の近くにある日揮(株)のパリ事務所に立ち寄ると、私1人分の航空券しか購入できておらず、この時期は夏休みが絡んで満席のため、緊急帰国の職人さんの航空券は購入する事が出来なかったとの事だっだ。
そこで、私は病気の職人さんを先に帰国させようとしたが、職人さんが1人旅は不安で嫌だと頑張るので、2人分の航空券を入手するためパリに3日間待機する事になった。
@「帰路(パリの街)」:
私は日揮(株)・パリ事務所を出た後「コンコルドホテル」に宿泊し、ゆっくりとパリ市内を見物する積もりだった。しかし、同行していた職人も病人ではあったが“二度と海外に来ることは無いだろうから是非一緒に連れて行ってくれ”と彼に頼まれ、私は断りきれずに2人連れの市内観光になってしまった。(この時の病人である職人さんは飾り窓の女(娼婦)を経験したいなどと私よりも元気そうに見えた )
尚、私達は最初に昼食としてパリ市内にある日本式ラ−メン屋である「大坂屋」を訪れ、久し振りに日本のラ−メンの味を楽しんだ。また、夕食は市内の日本レストラン「さくら」に立ち寄り日本食を食べたが、日本の醤油で食べる刺身と冷奴の味は日本で食べるよりも数段美味しく感じたものだった。そして、翌日の夕食はホテル内のレストランで食事をしたがフランス料理の中でも珍味と言われるフォアグラは大変美味しかったが、エスカルゴはニンニクの香りが強くて好きになれない味だった。
私には多様に手を加えたフランス料理よりも、芸術的な盛り付けと、素材を活かした単純な日本料理の方がはるかに素晴らしいと思えた。一方、市内はホテル界隈を中心にオペラ通りや、シャンジェリゼ通り、モンマルトルの丘、セ−ヌ河畔等をタクシーを利用しながら散策して観光を楽しんだが、同行した職人さんは一生の思い出になったと感激して喜んでくれた。
@「日本帰着」:
日本では5月20日に東京新国際空港(成田)が開港していたので、到着は羽田空港ではなく成田だった。戸惑いながらも通関を済ませ到着ロビ−にでると妻が迎えに来ており、久しぶりの再会で懐かしかった。
尚、新空港は建設反対派の乱入やテロに備えて警戒が厳しく、空港のあちこちに警察官の姿が目立ち、日本の空港とは思えないほど異様な雰囲気だったのには驚いた。しかも、リムジンバスを利用して都心に向かったが、横浜まで2時間以上もかかり不便このうえなく、世界の主要空港を見てきた私には大東京の空港としてはお粗末だと感じた。
しかし、久し振りの日本では空港の良し悪しよりも日本食に執着していたので、まずは横浜で寿司屋に立ち寄り、にぎり寿司と刺身と味噌汁を食べ、我が家に着いて、日本の風呂の心地よさを満喫し、日本文化の素晴らしさを再認識したものだった。
@「長期休暇」:
今日まで殆ど仕事と勉強に追われて余暇を楽しむとか、遊び事などを考えた事もなかったので、遊びに関しては全くの音痴となり、初めて経験する1ヶ月の長期休暇をどのように過ごして良いか判らずに戸惑ってしまった。
休暇最初の数日は横浜の街や家の近くを散策したり、伊勢原の母や姉の家を訪ねて現場の話などをしたりして過ごしていたが、アルジェリアの砂漠では殆ど見る事が出来なかった豊かな緑を見たいと思い立ち、大分県・九重連山の麓にある「宝泉寺」と中学校の修学旅行で訪れた事がある「阿蘇山」を見るために妻と2人で九州に出かける事にした。8月4日、私達は1週間の旅程を組んで、妻と2人で羽田空港から福岡に飛び、JRで福岡から九大線の日田駅に出て散策、日田からは路線バスを利用して中学校の修学旅行で訪れたことのある小国温泉を経由し、奥深い山道を路線バスに揺られながらゆっくりと宝泉寺温泉に到着した。
先ず、懐かしい山道を登って亡き父の実家を尋ねて久し振りに従兄弟達と再会し、父の遺骨が納骨してある近くのお寺を訪ねて父の墓参りを済ませ、従兄弟が経営しているホテル竜泉閣にも1泊し、叔父さんが経営する旅館「新清館」にも宿泊させて貰うなどして、昔と変わらぬ豊かな自然と緑を満喫して宝泉寺を離れ、観光バスで九州横断道路の「やまなみハイウェイ」を走って阿蘇山観光に出かけた。
途中、バスの車窓からは放牧されている牛の姿や、雄大な阿蘇の外輪山、草千里を眺める事が出来た。また阿蘇の山頂では噴煙をあげる火口を見物してその日は阿蘇山の麓の温泉に泊まり、翌日は雄電社時代に親しくなった友人の蔵本君宅に立ち寄り、熊本空港から横浜に戻った。
今回の九州旅行で味わった大自然と、殺伐として何もないサハラ砂漠での無味乾燥な生活とを比較すると「天国」と「地獄」ほどの落差を感じ、将来、会社を辞めたら是非、緑豊かな自然の中で暮らしたいと思うようになった。
アルジェリア編<明日も続きます>
↓変電所の着工式
(但し、お払いは日本酒ではなくワイン、神主は本物)

↓オアシスの街

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