御案内!  

  
「読者の皆様へ」
  
 このブログの投稿日は第1弾の佐世保編が(2007年1月31日〜2月21日)、第2弾の東京・海外編が(2007年2月22日〜5月22日)、第3弾の岡山編が(2008年5月28日〜7月24日)です。従って、物語の流れに逆行して表示されていました。

 但し、纏めて最初から読みたいが、”物語としては時系列が逆なので読みにくい”との声を頂きましたので、投稿記事の配列を時代の流れに沿って上から下へ第1弾→第2弾→第3弾の順に配列を変更しました。
 尚、自伝は次の投稿より(昭和18年・私の誕生)がスタ−トします。

*下記の写真は私の人生の中で思い出深い写真です。

↓安住の地ネオポリスより
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↓充実していた横浜(並木)
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↓青春万歳の東京(丸の内)
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↓私の原点である佐世保
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↓悪戦苦闘したサハラ砂漠
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↓海外プロジェクト
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↓今は無きニュ−ヨ−ク貿易センタービル
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↓私の芸術感を変えたルーブル
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↓もう一度行きたいアイガー
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2018/5/10

アーカイブス(昭和18年)  

◆1943年(昭和18年)

◇トピックス:
 1/ 2  日本軍、ニューギニアで玉砕
 2/ 1  日本軍、ガダルカナルを撤退
 4/18  連合艦隊山本五十六司令官、戦死
 5/29  アッツ島日本守備隊玉砕
 8/ 1  朝鮮に徴兵制施行
 9/ 4  上野動物園空襲に備えて猛獣を毒殺
 9/ 8  イタリア無条件降伏
10/21  神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会
11/ 1  兵役法改正(45歳まで)
11/ 5  大東亜会議、東京で開催
12/10  学童の縁故疎開促進

<其の時私は!>

太平洋戦争が劣勢に傾き始めたこの年に長崎県佐世保市で生まれました。

                      =次回へ=

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2018/5/10

アーカイブス(昭和19年)  

◆1944年(昭和19年)・・・私「満1才」

◇トピックス
1/19  女子挺身隊結成
2/25  文部省、食糧増産に学徒500万人を動員
7/ 7  サイパン島玉砕
7/18  東条内閣総辞職
8/ 4  東京の学童疎開開始
10/25 レイテ沖海戦で、神風特別攻撃始まる
11/27 B29による東京初空襲
12/13 名古屋初空襲
12/18 大阪初空襲

<其の時私は?>
 私が一歳の時で記憶にはないが、父と伯父が病死、我が家は祖母、母、幼い子供4人の母子家庭となった。

                                  =次回へ=
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2018/5/10

アーカイブス(昭和20年)敗戦直前  

◆1945年(昭和20年)敗戦前・・・私「満2才」

◇トピックス:
1/13 東海大地震
3/ 9 10日まで東京大空襲
3/17 硫黄島日本軍玉砕
4/ 1 米軍、沖縄本島に上陸
6/18 沖縄、ひめゆり部隊集団自決
7/26 ポツダム宣言発表
8/ 6 広島に原子爆弾投下される
8/ 8 ソ連、対日宣戦布告
8/ 9 長崎に原子爆弾投下

■強制疎開
 終戦3ヶ月前、我が家は公的施設(大久保小学校)に隣接していて、公的施設が目立たないように、そして、米軍の爆撃を避けるためと称して、強制的に家屋3棟を没収・解体されて貧しい借家住まいとなった。
 尚、後日の話だが、近所では裏工作で家屋没収を免れた人々も多々いたそうだが、"我が家は軍人の家庭であり町内会の役員等だった関係から何も対応できなかった" と悔しそうに語っていた母の記憶が私の脳裏に残っている。

■佐世保爆撃(空襲)
 開戦4年目を迎えて配線は決定的となり、軍港である佐世保は6月26日に初空襲を受け、その後も1回の空襲を受けて街の中心部は362人の死者と12,100軒の家屋が被害を受けて廃墟と化した。
 但し、没収された我が家に隣接していた大久保小学校の周囲や軍の重要施設は無傷で残され、米軍が占領後に基地の施設として使用しているのを見ると、周到な計画により空爆が行われていたと思われる。

<その時私は?>
 満2才で全く記憶にない。

↓空爆
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↓悪夢!広島と長崎に原爆投下
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2018/5/10

アーカイブス(昭和20年)終戦直後  

◆1945年(昭和20年)・終戦直後(8月15日〜)・・・私「満2才」

◇トピックス:
8/15 天皇の「玉音放送」で終戦
8/30 マッカーサー厚木に進駐
9/ 2 ミズーリ号上で降伏調印
10/24 国際連合発足
11/ 6 GHQ、財閥解体を決定
12/ 9 GHQ、第一次農地改革を指令する

 米軍による占領政策の始まりであるが、私は3歳で終戦の記憶は全くなく、後に、記録や近所の人々の話しを聞いて当時を想像するしかありません。
ただ、面白いことに、先日まで鬼畜米英と叫んでいたのに、敗戦が決まると「日米会話手帳」がベストセラーになるなんて、当時の日本人も相当にしたたかだった事を物語っています。

<その時私は?>
 「満2才」で何も記憶にない。

↓天皇陛下の玉音放送
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↓戦争の傷跡
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2018/5/10

アーカイブス(昭和21年)  

◆1946年(昭和21年)・・・私「満3才」

◇世相・流行語:
カストリ、赤線、たけのこ生活、闇市、買出し、物々交換、栄養失調
◇流行った歌:
悲しき竹笛、東京の花売娘、かえり船、別れても、啼くな小鳩よ
◇人気の映画:
民衆の敵、わが青春に悔なし、はたちの青春、キュリー夫人
◇ベストセラー:
三木清「哲学ノート」、尾崎秀美「愛情はふる星のごとく」

◇トピックス:
 1/ 1 天皇の人間宣言
 1/ 4 GHQ、軍国主義者の公職追放を指令
 1/19 NHK「のど自慢素人音楽会」放送開始
  2/17 金融緊急措置法施行
  2/25 新円切り替え開始
 4/10 新選挙法による第22回衆議院総選挙
 5/ 1 第17回メーデー、11年ぶりに再開
 5/ 3 極東軍事裁判、A級戦犯が出廷
 5/19 第1次吉田内閣成立
 9/30 GHQ、三井、三菱、安田に解散命令
10/ 9 男女共学実施決定
10/21 第2次農地解放令
11/ 3 日本国憲法公布
12/21 南海道大地震(近畿、四国)

■生きるのに必死!(食料危機)
 昭和21年、日本政府はインフレ対策として新円切り替えを実施し、11月3日にGHQの主導に依る世界で唯一“戦争放棄”を盛り込んだ「日本国新憲法」を発布したが、庶民の生活は敗戦による混乱と経済破綻で激しいインフレと食糧危機で瀕死の状態にあった。
 この年、日本政府は主食の配給を米換算で2合5尺と定めたが、実際に配給される食糧の殆どは薩摩芋の粉、トウモロコシの粉、粟、高粱等の家畜飼料同然の雑穀類が中心で栄養失調気味の子供達も多かった。
 当時は配給以外の食料売買は食糧統制令により公には禁止されていたが、一般の人々は飢餓からの自己防衛のために直接農村へ出かけて貴金属や着物等と農産物を交換し、違反を承知で自前の食料を確保していた。
 また、兄や姉達の話によると我が家も母が自分の着物などを持って近郊の農家に出かけて行き、芋や野菜等と交換して私達の食料を確保していたそうだ。
 このような世相を反映して、世間では「竹の子生活」、「闇市」、「買出し」等の言葉が流行し、早くも米軍相手の商売や、街頭に娼婦もチラホラと現れたそうです。
 ただ、復興の足音は聞こえるものの、国民は食料・物不足で貧困のどん底、新円切り替えにより我が家も大打撃を受けたと聞いている。

■引き揚げ
 海外で終戦を迎えた日本人は640万人を超えていたが、彼らの日本国内への引き揚げが開始され佐世保港には5年間で各地から1,216隻の引き揚げ船が入港し140万人の引き揚げ者を迎え、日本各地に送りだした。

<その時私は?>
 私は三歳で、まだ当時の記憶はない。


↓戦争の傷跡
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↓闇市
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2018/5/10

アーカイブス(昭和22年)  

◆1947年(昭和22年)・・・私「満4才」

◇トピックス:
 4/ 1 6-3-3 学制発足
 4/ 7 労働基準法公布
 7/ 5 ラジオ放送劇「鐘のなる丘」始まる
 8/ 9 古橋広之進、水泳自由形400Mで世界新記録
11/25 第1回共同募金開始

 前年度に食糧統制令を忠実に守って不正な闇市場などでの食糧調達を拒み、政府の配給食糧だけで暮らしていた正直な判事さんが飢餓のために死亡するという痛ましいショッキングな事件が新聞で報じられ、日本国民に衝撃を与えたが、敗戦から二年目を迎えても世相は混乱し、インフレが続く中で、物不足と食糧難で主食の配給が20日ほど遅配・欠配した。
そして、町内会・部落会・隣組が廃止され、6・3・3 制の学校制度が発足して国民学校が小学校と改められ、労働基準法、独占禁止法、国家公務員法、民法が公布され、第23回総選挙で社会党の片山内閣が誕生し、戦後初の国勢調査で日本の総人口が7,810万人余と判明した。

<その時私は?>
 まだ、満4才で当時の事について私の記憶にはない。

↓<戦争の傷跡>
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2018/5/10

アーカイブス(昭和23年)  

◆1948年(昭和23年)・・・私「満5才」

◇トピックス:
 4/ 1 新制高校発足
 5/ 1 美空ひばりデビュー
 6/28 福井大地震、死者3895人
 8/ 6 古橋、ロンドン五輪水泳1500mで世界新
 9/15 主婦連合会結成
11/12 極東軍事裁判で、戦犯25名に有罪判決

  (米価→1,487円/60kg)

 元日、初めて国民の皇居一般参賀で二重橋が開放されて新年が始まったが、街のあちこちには職のない復員兵や中国大陸からの引揚者が目立ち、まだ庶民の生活はどん底で暗い世相だった。
 しかし、食料や物資不足が続く中、隠匿されていた軍事物資の横流しや、密造酒「かすとり」などで稼ぐ逞しい連中もいて、相変わらず闇市界隈だけは活況をていしていた。
 また、米進駐軍の影響で街には横文字(英語)が氾濫し「米英会話手帳」がベストセラ−になる御時世の中で、私は比良町の「比良幼稚園」に入園し、この頃からの記憶が今も残っている。

<その時私は>・・・満5才
■幼稚園
 昭和23年、私は満5才となり、この頃からが記憶の始まりである。
母は私を隣町の私立比良幼稚園に後入園させてくれた。当時は幼稚園に通うのは比較的裕福な家庭の子供が多く、貧しい我家の家計を考えると私の入園は分不相応であり、見栄のためとはいえ母は相当に無理していたのだろう。
尚、我家では2人の姉達は幼稚園に入園したが、兄だけは戦後の混乱期のために幼稚園には行く事が出来なかったそうだ。

■飼い猫
 私が幼稚園児の時に肺炎になり、1ヶ月ほど自宅で寝込んでいた時の事だが、ある日、母が少し離れた大久保町の「湯浅病院」に薬を受け取りに行った時に飼い猫の「チョコ」が母の後について行き、そのまま我が家に帰へらず行方不明となってしまった。
私達家族全員で近くを探したが見つける事が出来ずに皆が心配していたところ5日後に身体は汚れ、痩せ衰えた「チョコ」戻って来た。それからの「チョコ」は毎日私の寝床に潜り込んで来るようになり、私の病気回復を待っていたかのように一週間後に突然死んでしまった。
私は幼心に「チョコ」が私の身代わりで亡くなったのだと思うようになり、この時から私の猫好きが始まって今日まで続いている。


↓比良幼稚園にて
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↓遠足(鵜渡越にて)
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2018/5/10

アーカイブス(昭和24年)  

◆1949年(昭和24年)・・・小学校1年生「満6才」

◇トピックス:
 1/26 法隆寺金堂火災、国宝壁画焼失
 4/25  1ドル360円の単一為替レート実施
 6/27 シベリアからの引き揚げ第1陣舞鶴に入港
 7/ 1 国鉄職員9万5千人整理通告
10/ 1 中華人民共和国成立
11/ 3 湯川秀樹博士ノーベル物理学賞

  <その時私は?>

■ 学校生活(小学校入学)
 4月の桜が満開の晴れた日、母に連れられて大久保小学校の入学式に出席した記憶がある。
しかし、入学式の内容や私の服装などは記憶に残っていないが、学校で撮ったクラス全員の記念写真には全員が粗末な服装で写っており、当時の世相が読み取れた。
ただ、小学校では給食が始まっており、コッペパンと脱脂粉乳のミルクであったが私にはご馳走だった。尚、担任は永山百合子先生だったと記憶している。
@骨折
 私が小学校に入学して間もなく、兄の挑発に乗って近所の崖の上から飛び降りたところ、左足を骨折してしまった。私は激痛のために泣き叫びながら、たまたま近くに居た隣のお姉さんに背負われて家に戻ったのだが、その時の痛みは強烈だった。
 直ぐに知り合いの神主さん(接骨師?)に治療してもらったのだが、その時は痛め止めなどは無く、小麦粉に酢を混ぜた湿布薬を塗って添え木をして固定する簡単な治療だったので数日間も激しい痛みが続いた。そして完治するまでは、祖母が私を背負い、かなりの道のりを通院してくれたし、毎日の学校の送り迎えも面倒見てくれた。

↓当時の大久保小学校入学式のスナップです。
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↓小学校1年生のクラス記念写真
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2018/5/10

アーカイブス(昭和25年)  

◆1950年(昭和25年)・・・小学校2年生「満7才」

◇トピックス:
 1/ 7 聖徳太子千円札発行
 4/22 第1回ミス日本に山本富士子
 7/ 2 金閣寺放火焼失
 7/ 7 後楽園、初ナイター大映対毎日戦
 7/24 GHQ、新聞社の共産党員の追放、レッドパージ始まる
 8/10 警察予備隊設置公布令・施行
 9/ 3 ジェーン台風、関西に被害

 6月28日に朝鮮戦争が勃発し、その特需景気により大不況で疲弊していた日本経済に神風が吹き、瀕死の状態だった多くの企業が立ち直り、日本経済躍進の礎となった。特に、倒産寸前だった「トヨタ自動車」が立ち直り、世界の「トヨタ」に発展した話は有名である。

  (米価→2,064円/60kg)(公務員平均給与→6,300円)

  <その時私は?>

■我が家の記憶
 我が家は貧困のどん底にあり、私の記憶にある借家は細い坂道の途中の民家が密集した場所にあり、家賃が月1,500円で、6畳2間と土間の台所(釜戸と汚い流し台)に3畳間、玄関土間に2畳間、縁側と便所、床の間があり、裏は古い風呂桶が置いてあって風呂場になっていた。
 また、この借家はかなり古くて家全体が少し傾いており、雨漏りはするし、台所は暗くて入口の扉はガタガタで戸締りしても外から簡単に外せたので、私は幼心にも泥棒が心配で怖かった。(この家は雨漏りを直そうと思って屋根に登ると屋根全体が古くて瓦が壊れそうだった)
我が家はこの狭い家に6人家族で生活していたのだが、6畳の1間は母の仕事場として使用していたので私達5人が実際に寝起きしていたのは別の6畳間の居間だけだった。
しかも、この居間には金ピカの大きな仏壇と、床の間があり、更に祖父手作りの大きな和タンスが1棹、姉の勉強机が1つ置いてあって狭い家をより狭くしていた。
 また、夜は居間の6畳1間に蒲団を敷き詰めてザコ寝状態だったので、私は狭い我が家には大き過ぎる仏壇とタンスが邪魔で腹が立ち、いつも蹴飛ばしていた記憶が残っている。
 また、家の縁側には雨戸もなく、引き戸はガラス戸で歪が大きく、すぐに外れそうで、私は台風の時などは強い風雨の音で怖くて眠れなかった。
 また、冬は冷たい隙間風が家の中を通り抜けるので、豆炭の火鉢と炬燵だけが暖房設備だった我が家は本当に寒かった。

■父の実家
 冬休みに母と次兄、兄、私との4人で初めて父の実家・宝珠山家を訪ねた。
佐世保駅から国鉄を利用して久大線の宝泉寺駅で下車したが、そこは雪のある小さな田舎町だった。私には初めての汽車の旅で途中駅の名前などの記憶が残っている。
 実家は駅から歩いて30分ほどにあり茅葺の大きな農家で庭先には白壁の土蔵があり、母屋続きの牛舎には牛数頭と馬が繋がれていた。また、初めて見る田舎の雪景色、従兄が馬に乗ってる姿など全てが珍しかった。
@父のお墓
 私の父のお墓はお寺にはなく、近くの道端に墓石ではなく大きな石をポツンと置いただけの粗末なものだった。尤も、私には父に対する記憶や感情はなく、その時は何も感じず、手を合わせる事もしなかった。

↓私の小学校2年生のクラス写真
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↓朝鮮動乱の特需で日本経済は救われた。
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2018/5/10

アーカイブス(昭和26年)  

◆1951年(昭和26年)・・・小学校3年生「満8才」

◇トピックス:
 1/3  第1回NHK紅白歌合戦放送
 3/ 9 三原山が大噴火
 4/11 マッカーサー罷免される
 5/13 ラジオ体操復活
 9/10 カンヌ映画祭で「羅生門」グランプリ
10/28 力道山、プロレス興業を開始

<その時私は?>
 クラス委員(級長)を努め、駆けっこも早くリレーの選手だった。
また、学芸会でも学年劇のナレーターを担当して好評を得た記憶もあり、この頃は“良い子”の部類に属していたのだが、新任の依怙贔屓の強い担任の先生に馴染めず、私の態度にも反抗心が現れていたのだろうが3学年の年度末表彰で成績優良賞を貰えず、家族からの非難対象となり、後々まで4人兄弟で一番出来の悪い子というレッテルを貼られてしまった。
@食料事情
 尚、当時の食料事情は劣悪で、米が少々、粟、押し麦、トウモロコシの粉、芋、などが配給制で各町内の地区毎に販売されていた記憶がある。また、副食としては大根、大根の葉、芋蔓、魚は鰯が定番だった。勿論、我が家の毎日の食卓は貧しく、大半が麦粥、団子汁、芋の粉で作った団子などが主食だったと記憶している。また、近くの山野に兄達と山菜を取りに出かけ、野生のユリ根、ツワブキ、野イチゴ、桑の実などを採取して食べていたが、同じ山菜でも「セリ」、「ワラビ」、「タラの芽」などは何故か食べた記憶がない。

↓この年の写真は残っていない
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2018/5/10

アーカイブス(昭和27年)  

◆1952年(昭和27年)・・・小学校4年生「満9才」

◇トピックス:
 4/ 9  日航「もく星号」三原山に墜落
 4/10  NHK「きみの名は」放送開始
 5/19  白井義男、フライ級で世界チャンピオンに
 7/ 1  羽田空港返還、東京国際空港に
 8/ 1  日本電信電話公社が発足

 韓国が「李承晩ライン」を設定し日韓間の紛争が増加、NHKのラジオ放送で「君の名は」が始まり、この時間は銭湯が空になると言われたくらい異常な人気となった。
 日米平和・安全保障条約が発効して長年続いた米軍の占領が終わり、名実共に日本が独立し、様々な法律が米国流に改正された。

 (米価→3,000円/60kg)

<その時私は>小学校4年生

■ 学校生活:
 私はクラス委員にも選ばれ成績も悪くなかったし、学芸会にも参加、年度末には成績優良賞を貰えたし、何よりも母が喜んでくれたので良き1年だったのだろう。
@学芸会
 クラスの担任は音楽の好きな先生だったこともあって、学芸会で千夜一夜物語の盗賊の頭役を押し付けられたり、吹奏楽では何も解らないまま楽器(カスタネット)を持たされて参加させられるなど私には迷惑だった。
@「算盤」
 私は兄と一緒に公民館を利用して開かれていた算盤塾にも通っていたが、塾では2才年上の兄(3級に合格)と比較されていたので、私も5級には合格したが、だんだん算盤への興味が薄れていった。
 尚、長姉は就職(銀行)後に3級を取得し、次姉も3級を取得したので我が家は算盤一家だった。
@「習字」
 日曜日には近所の習字の先生宅に通って 習字を習っていた。そして、佐世保市主催の習字大会で「佳作」に入選した事もあるが、内心は習字が嫌いだった。
 我が家では長姉が書道好きで、後に書道の師範になるほどの腕前だったし、母も字が上手で、次姉は普通、兄は個性的な字を書いていた。結局、字に関しては習字を習っていた私が家族の中では最も下手だった。
 今に思えば私の母は典型的な教育ママで、あの苦しい家計から月謝などはどのように捻出していたのだろうかと考える事があった。
 ただ、“片親だからと周囲にバカにされないように”が母の口癖だったことを記憶している。

■姉(長女)の就職
 姉が翌春の高校卒業を控え、佐世保市に本店を置く地元の有力企業である「親和銀行」に就職することを希望していたが、当時の銀行は最上級の就職先で職員の採用は学業成績の他に家庭環境や縁故関係などを重視しており、学業がトップクラスの姉でも、我が家が貧しい母子家庭で縁故もない姉の入社は難しいと思われていた。
 しかし、幸運にも母は同じ町内に住んでいた親和銀行・副頭取の「○○さん」と学校行事などを通して顔見知りだったので姉の就職に口添えをお願いした。いつも「片親だから・・・・、人の世話にはなりたくない」と意地を張っていた母だが本当に姉の親和銀行への就職を願っていたのだろう。
そして、姉は高校の恩師である「吉村鳳一郎」先生のご尽力と母の努力が実を結び、希望通り親和銀行に採用が内定した。その時は母が一番喜んでいたようだった。
@姉の給料
 翌年4月から長姉は親和銀行に勤め始め、姉が最初の給料袋を母に渡した時“これで子供達の学費の心配が無くなる”と嬉しそうに話していた母の言葉を記憶している。
また、姉は給料日に菓子を買って来たり、私達にも子遣いをくれる等、我が家にも少し明かりが見えてきたのだが、まだ、学校に通う私達3人の子供がおり、母の昼夜を通して蒲団を仕立てて得る少ない労賃に頼る貧しい家庭に変わりなかった。

↓学芸会
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2018/5/10

アーカイブス(昭和28年)  

◆1953年(昭和28年)・・・小学校5年生「満10才」

◇トピックス:
 2/ 1 NHK、東京地区でテレビ放送開始
 3/23 中国からの引き揚げ始まる
 4/20 ボストンマラソン、山田敬蔵が優勝
 7/17 伊東絹子、ミスユニバース3位に
 7/27 朝鮮休戦協定調印
 8/28 日本テレビ放送開始、街頭テレビに人気
12/25 奄美群島返還
12/31 「紅白歌合戦」初めて公開放送

 (米価→3,280円/60kg)

<その時私は?>小学校5年生

■学校生活
 兄が中学生になって小学校を去り、学校での監視役がいなくなり、私も自由の身になって校内での活動も活発になり、自習時間の時などはクラスで算盤の指導(読み上げ算)をしたり、各研究発表会(アイスキャンデーの作り方、火山の構造などを記憶している)などでもクラスの中心的な存在だった。尚、この年も年度末には成績優良賞を貰うことが出来た。
@「指揮者」:
 学芸会で合奏団の指揮者を担当させられたが、私には音楽的な素養や知識もなく先生の指示通りにタクトを振っただけで、演奏は何事も起こらず無事終了した。この経験から大人になっても指揮者とは楽団の飾りだとの思いが強く、小沢征爾などもその程度だと思っていた。
@俳句
 学校の宿題で作成した私の俳句「コスモス」が学年で優秀賞に選ばれ、全校生の前で発表したことがあった。但し、真相は私に俳句のセンスが有ったわけではなく、図書館で何かの本に載っていた俳句を適当に作り変えただけの盗作だった。この経験から、俳句や詩などは言葉の遊びだと軽視するようになり、今でも作者の趣味と自己満足と世界だと思っている。

■泥棒
 我が家は母のミシン仕事だけで、祖母と高校生の長女、中学生の次女と兄、小学生だった私の6人家族の家計を支えてていたので、経済的には非常に貧しい我が家でだった。
 また、時々母がこっそりと着物などを持ち出して質屋に行っていた事も私の記憶に残っている。このような我が家にも1度だけ間抜けな泥棒が入り、母の腕時計を盗まれた事があった。(今では落語のネタのようだが、本来なら泥棒が我が家の貧しさに同情して何か置いていっても良いような家庭だったので記憶に残っている)

 <この年の写真は1枚も手元に残っていない>
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2018/5/10

アーカイブス(昭和29年)  

◆1954年(昭和29年)・・・小学校6年生「満11才」

◇トピックス:
 3/ 1 ビキニ水爆で「第5福竜丸」が被爆
 5/ 9 原水爆禁止運動杉並協議会が結成される
 7/ 1 防衛庁が設置され、自衛隊発足
 7/ 5 映画「原爆の子」が国際映画平和賞を受賞
 8/ 8 原水爆禁止署名運動全国協議会結成
 9/26 青函連絡船「洞爺丸」が沈没
  (米価→3,648円/60kg)

<その時私は?>・・・小学校6年生
 
■ 学校生活(転校)
  この年、公立小学校の区域変更があり、私は「保立小学校」に転向する事になった。
転校した保立小学校は校舎も木造で古かったし、生徒は貧しい家庭の子供が多く、学費や給食費の滞納者もいたので大久保小学校より給食などの質も、校内環境も悪かった。
@幼い恋心
  私が小学6年生の時、町内・子供会で私が会長に、副会長に「M子」が選ばれた。
彼女は勉強が出来る可愛いい子で、私はほのかな恋心を抱くようになり、彼女の気を引くために、子供会では積極的に活動し、夏休みの町内清掃を提案したり、運動会での町内対抗リレ−でも熱心に行動したり、夏休みのラジオ体操なども皆勤した。
  しかし、私は気が弱くてスト−カ−まがいの行動が精一杯で、高校を卒業するまで彼女に私の気持ちを伝える事が出来なかった。
@学芸会
  学芸会では準主役に選ばれたのだが、当時私はソフトボールに熱中していたので、放課後に行われる学芸会の練習を嫌って役を断り、友達とソフトボールに興じていた。
  誰が告げ口したかは判らなかったが、この事が学校行事には熱心で教育ママだった母に知れて怒られた気憶がある。
@表彰
  転向した小学校に幼稚園時代の友達が2人いたのですぐに仲良くなり、彼らと私の三人でポマ−ドを作り、工程の説明を図表化して佐世保市の理科展に出品し、小学校の部で金賞を獲得して表彰され、市の産業会館に展示された事もあった。
@「修学旅行」
  小学校の修学旅行は一泊二日で「雲仙」へのバス旅行で、学校からバス4台を連ねて出発し、大村、島原を経由して仁多峠と雲仙の地獄を見学して、雲仙の名門旅館である「東洋館」に泊まった。それまで佐世保だけしか知らなかった私は、初めて見た旅館の豪華さや、周囲の景色の美しさ、そして地獄の異様な雰囲気に、こんな楽しい場所があるのかと驚いた記憶があり、後に新婚旅行で再び雲仙を訪ねた。
@篠崎先生
  我々六年生は4クラスに分かれ、1クラスの生徒数は50数名で、私達の担任の先生は女の篠崎年子先生だった。篠崎先生は我々転校生に対する差別も無く、何事にも積極的で私は好きな先生だったが、母の女学校時代の後輩ということで親交があり、何かとやり辛かった。
  尚、篠崎先生は後に教職員組合から佐世保市の市会議員、県会議員、参議院議員に立候補してそれぞれ当選されたくらいだから、相当のやり手だったのだろう。

↓初めて見た雲仙
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↓卒業式の日「篠崎先生」と
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2018/5/10

アーカイブス(小学生時代)−1  

小学生時代の思い出
  期間:昭和24年4月〜昭和30年3月

■食料事情:
  私の小学生前半の食料事情は前にも紹介しましたが、後半になると日本の食料事情は徐々に改善されて学校給食の質も向上してきたが、育ち盛りの子供4人の我が家の食生活は貧弱だった。
  我が家では白米が少なく、主食は押し麦に白米を少し混ぜた麦ご飯や、見かけは白く見える微塵切りの大根をご飯に混ぜて食べる事が多かった。特に大根飯は白米の御飯に見えるようにと母の苦肉のアイディアだったのだろうが、冷めたこの大根飯は本当に不味かったが空腹を満たすのには役立ったが、その後遺症として私の大根嫌が大人になるまで続いた。また、我が家の食卓には肉が並ぶ事はなく、メニュ−の中心は祖母が近くの空き地を借りて育てた野菜と魚貝類で、魚は値段の安い鯵、鰯、きびなご、あご(トビウオ)、烏賊、アラカブ(カサゴ)、鯨肉等が定番だったが、後年になるとアラカブは漁獲量が激減して高級魚の仲間入りし、鯨肉は捕鯨禁止で入手困難となり、時の流れを感じさせる食べ物になった。
  また、家では数羽の鶏を飼育していたが、その卵は私達の口には滅多に入らず、母は以前からの知り合いだった大久保町の「坂本商店」に持ち込み、金銭に換えて生活費の足しにしていた。
ただ、母は仕事が忙しいのに、いつも私が学校から帰ると仏壇には「蒸かし芋」、「芋ぜんざい」、「団子」などのオヤツが置いてあり、小学生時代の私は貧しさの中にも恵まれていたと思う。
  一方、私は食事をしながら、お釜のご飯が残り少ない時には“おかわり“を控えめにして、幼いながらも気を使っていたが、後に、兄も私と同じ思いで“母の御飯が無くなるから”と気を使い自分の食事を控え、弟の私が無邪気に“お代わり”をする姿を見ていて腹立たしさを覚えていたと言っていた。
■常備薬」:
  我が家では少々のケガや病気では病院に行く事は殆んど無く、化膿止めにドクダミ草、切り傷にハコベ、腹痛や火傷にアロエ、解熱剤にハブ茶、ゲンノショウコ等、手近にある薬草で対処していた。
  一方、私が何歳の頃からかは記憶にないのだが、富山の薬売りの小父さんが毎年1回だけ我が家を訪れて置いてゆく薬箱が常備されていて、私には薬箱の中からアスピリン、トンプク、熊の胆、マ−キュロ等を使用していた記憶が残っている。
■小学生の遊び
  当時の子供の平均的な遊びはメンコ、ビ−玉、滑り板、凧揚げ、山遊び、川遊び、チャンバラ、相撲、・・・と多彩だった。
また、私達にはお金のかからない遊びが沢山あり、遊び道具の竹馬、弓矢、凧、水鉄砲、ゴム銃、チャンバラ用の刀、木船、模型飛行機、水中鉄砲、紙相撲、滑り板、等を兄や友達と一緒に手作りして遊んでいた。
@「山遊び」:
  山遊びでは、兄と一緒に鳥餅を使って野生の「目白」を取るのが楽しかった。
尚、使用する「鳥餅」も山の木から抽出し、囮の呼び笛も竹から作り、寒い冬の山に潜り、震えながらも囮の目白と竹笛で野生の目白を呼び寄せ、目白が鳥餅に近付いた時の緊張感と鳥餅に懸かった時の喜びは、何とも言えない快感だった。また、山のあちこちに「山鳥」を捕まえる罠を仕掛けて、毎日、学校からの帰りに獲物がかかっていないか見て廻るのも楽しみだったし、家の近くにレンガで罠を仕掛けて雀を捕まえるのも面白かった。
@「魚釣り」:
  私達の海釣りは佐世保川の河口か、魚市場近くの岸壁が釣り場だったが、先ず佐世保川河口の干潟で餌の「ゴカイ」を採取してから釣を始めるのだが、私達の釣り場で釣れる獲物は殆どが「ハゼ」や「ボラ」、「ヒイラッパ」と呼ばれる魚で“猫またぎ”とも呼ばれ、猫も食べないような代物ばかりだった。また、近くの溜池ではミミズを餌にして「鮒」や「どんこ」等が釣れたが、これ等も食べる対象にはならなかった。
  尚、釣竿は山で適当な竹を見つけて自分で作り、釣り道具としては、針と糸を買う程度だった。
@「海水浴」:
  1度だけ町内会主催の海水浴に母も一緒に家族で参加し、「牽牛崎海水浴場」で西瓜割りなどして楽しく過ごした事があった。そして、海水浴場で海水に漬して食べた「炒豆」、「金ウリ」、「トマト」等が美味しかった記憶として残っているが、母と一緒に行った海水浴はこの時が最初で最後だった。
また、四年生の時に学校主催の唐津・虹ノ松原の林間学校に参加し、私はここで泳ぎを覚えた。
それ以外では、兄や近所の人達と一緒に相ノ浦の「弁天島海水浴場」に出かけていたが、現在は九州電力の「相の浦発電所」が出来て埋め立てられ懐かしい弁天島は姿を消してしまった。
@「子供相撲」:
  兄とは良く相撲を取ったが、幼い時は二歳の年齢差が大きく、体力的にどうしても兄には勝てず私は何時も悔しい思いをしていた。
  しかし、学校では同級生の間で番付表を作り互いに競い合っていたが、私は小柄ではあったが機敏な動きで関脇、大関クラスの実力者だった。
  ただ、お祭りの催事として開かれる子供相撲大会に出たこともあるが、何時もは勝てる相手に負けてしまい、当時の私は本番には弱かったようだ。
■母の手作り
  貧しかったせいか、私達家族の服は勿論、クツやカバン、帽子までも、何から何まで母の手作り品で嫌だった。(今の時代は母の手作り品は大変な貴重品として評価されていますが、当時は貧しさのシンボルのようの思っていたので嫌だった。それにしても、今思うと母の器用さには驚くべき才能が有ったのだ感心するばかりである)

 今回はブログの容量オーバーですので「我が家のイベント」は次回に投稿します。
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