前向上はなかなか洒落ていて要領がよく描けている。「つむじ」とは面白い名を付けて貰ったものだ。ところで「つむじ」という言葉だけで「どこかへそまがりのニュアンスがあるみたいだ」というのは、ちょっと飛躍過ぎるような気がする。ところで「左巻き」とかいって、人を揶揄する言葉があるから、その「つむじ」について興味が湧いた。いつものように安直にWikipediaによるコピー・ペス−ストでお茶を濁すのだが、 つむじの向き
右利きの人の95%以上のつむじが右巻き(時計回り)で、両利きや左利きの人は右巻きと左巻きが半々だという。この考え方を使うと右利きを断定することは出来ないものの、少なくとも左巻きの人は両利きか左利きの可能性が高いということがわかる ...
さてこの「つむじ」君はどちら巻きであろうか。この小説のなかでの「つむじ」君の独白を読むと、頭の回転が早そうだから「左巻き」ではなさそうだ。私は吟遊視人氏の常日頃主張する論に共鳴することが多いので、彼の分身らしき「つむじ」君の説く所には異存は殆どないと言える。だからその点についての論評はしないが、この小説の構成について感じたことを書こう。
我々読者は猫の「つむじ」君の独白とみなして読み進むのだが、ただ独白が続くと次第に吟遊視人氏の姿がそこにちらついてくる。だから語っているのは猫の「つむじ」であることを時々思い出させるような仕掛けが欲しい。漱石の猫は、苦沙弥先生や世間の滑稽な様子と常時対比させることによって、最後まで主人公が猫であると我々は読むのである。
もう一捻りするとすれば旅人−M氏が行っているように、時々「つむじ」君の飼い主たる吟遊視人氏と違った意見もあればなお面白いものになりそうだと思いますが。

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