2010/8/24  9:14

第62回−あとがき  陸軍中野学校

吉原政巳著「中野学校教育」(一教官の回想)に学ぶ −第62回−

あとがき

 人は一生の間に、心深くうたれて、忘れることのできない言葉と、何回かめぐりあうものである。もちろんその言葉は、それを言った人の、生涯をかけて実践した、人生の真実に出たものでなくてほならぬ。私にとって、谷泰山先生の教と伝えられる次の言葉、

 貴殿よく合点して死土産をこしらえる様にめさるべし。(中略)たとへば貧窮にして人中へ出ることもならず、油もなくて夜分に書物一冊見ることもなきほどの事にても、くらがりに黙然として居ても、少しも淋しうもなく心面白く居ると云ふ楽のなきは、いかほどの物しりでも本のことにてなき。

は、その最も強烈なものの、一つであった。今でもこの言葉を思うと、粛然衿を正すと共に、何ともいえない懐かしさを覚える。
 強い個性、豊かな才能を持っている人は、世に多い、だが私には、何の取柄もないし、自信もない。ただ縁あって、恩師の導きを受け、民族の魂の源泉である、古典に親しむ心をおこした。齢はすでに、二十二歳であった。

 その後、恩師・先輩・畏友の教と切磋をうけ、古人先哲の魂を慕って来た。陸軍中野学校で、学生諸氏と一緒に学んだ時も、私なりの祖述を試みたに過ぎない。それが本書に記したような、内容であった。もとより不敏の故に、師説を体認できず、先哲の教とは程遠いものであっただろうが、志はそこにあった。

 この事は、陸軍中野学校教育の、全体像を捉えようとしたものではない。本文でも述べたように、秘密戦を研究し、秘密戦士を養成する、陸軍中野学校において、私は秘密戦に関与しない、全くの門外漢であった。つまり私は、きわめて例外的な、中野学校の体験者である。ただ私が信じているのは、中野学校は、祖国日本の悠久の歴史の、正しい流れの中に生まれ、これを継ぎ護ろうとしたものであった、ということである。この深い底流において、私自身の、中野学校を体験させてもらった、と思っているのである。

 何らかの形で書いておけ、と幾人かの友に、早くから勧められて来たが、どうしてもその気になれなかった。三年程前、新人物往来社の相葉一博さんに要請されたが、動けなかった。一年程前から、同社の椎野八束さんの来訪が始まった。遂にこの四月初め、引き受けてしまった。若い御両所の、志と人柄に動かされたのである。強靭で複雑、容易に実体を捕捉できない秘密戦ゆえに、とかく誤解され興味本位に扱われ易い中野学校について、低い声ながら、また自分だけの一断面観にすぎないながら、私の体験を述べておくことも、全くの無駄ではないだろう。

 本書の中で私が一、二の例外を除いて、現存の方々の人名を掲げてないのは、私なりの用意あってのことである。非礼にあたる点は、謹んでお詫びして、御了承を仰ぎたい。

  昭和四十九年六月十日

著  者
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2010/8/24  8:34

第61回−小塚原回向院  吉田松陰

吉原政巳著「中野学校教育」(一教官の回想)に学ぶ −第61回−


   第五章 先烈の遺蹟に立つ


     4.都 内

  A小塚原回向院 
 
 伝馬町獄で刑死した松陰の遺骸は、門人飯田正伯・尾寺新之丞が、貰いうけようと、刑死の日も翌二十八日も、苦心の工作を続けたが成功せず、二十九日、尾寺を後詰に残し、飯田が非常の決意で乗り込み、獄吏を説得した。ついに死骸を、骨ケ原(小塚原)回向院で渡すことを約させ、飯田・尾寺・桂小五郎(木戸孝允)・伊藤利輔(博文)の四者が立会って、受け取った。

  四人環立して蓋を開けば顔色猶ほ生けるがごとく、髪乱れて面に被り、血流れて淋漓たり、且(かつ)体に寸衣なし、四人其の惨状を睹(み)て憤恨禁ずべからず、飯田髪を束ね、桂・尾寺水を灌ぎて血を洗ひ、又杓柄を取りて首体を接せんとしたるに、吏之を制して曰く、重刑人の屍は他日検視あらんも測られず、接首の事発覚せば余等罪軽からず、幸に推察を請ふと、飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱して体に纏ひ、伊藤は帯を解きて之を結び、首を其の上に置きて甕に収め、橋本左内の墓左に葬り、上に巨石を覆ひて去れり、

は、その情況を語る。やがて茲に、自然石の墓碑を立てて、

  松陰二十一回猛士墓

と刻んだ。この碑銘は、父叔兄への永訣書に依頼した通りで、二十一回猛士とは、何回でも何回でも、生きている限りは、国事に挺身してやまぬ志を表したもの、門人達も、好んで二十一回先生と、呼び合っていた。

 回向院は、荒川区南千住五丁目にあって、この墓地は、常磐線南千住駅の西南側に、現存している。橋本左内・頼三樹三郎・小林民部ら、多くの志士が、伝馬町に斬られ、あるいは病死したのを葬った。

 幕府は、これら志士の墓もこわしたが、文久二年、勅命によって死者の罪名を削り、久坂玄瑞らが、再び墓を造った。翌年正月、高杉晋作・伊藤利輔・品川弥二郎・山尾庸三・白井小助らが主となり、墓を荏原郡若林村(現在の世田谷区)に移し、明治十五年、この墓所に接して、松陰神社が建てられた。


 以上、吉野にはじまって、都内に終る現地の数々は、そのどこに立っても、感銘深い所であり、ここを起点に、歴史の豊かにも永い流れが、ひしひしと身に迫る。中野学校の学生諸氏と共に、これら先烈の跡を偲んだ日は、私にとっても、昨日のように鮮明な思い出を、とどめているのである。
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2010/8/23  20:53

第60回 伝馬町獄跡  吉田松陰

吉原政巳著「中野学校教育」(一教官の回想)に学ぶ −第60回−


   第五章 先烈の遺蹟に立つ


     4.都 内

  @伝馬町獄跡 
 

 日本橋小伝馬町一丁日に、十思公園という小さな、子供の遊び場がある。ここが、江戸時代の伝馬町獄の跡であり、三縁史蹟跡という表示が、岩本町から堀留町に向かう街路沿いに立って、その場所を敢えているが、道を通る人も、多くはこの、古びた小さな石碑に、気付かずに通り過ぎる。

 この獄は、慶長年間、常磐橋からここに移り、明治八年、市ヶ谷囚獄が出来るまで、二百五十七年間存続し、数十万人を収容した所で、二千六百坪の敷地をもっていた。この現在地、十思公園の真向い、小路一つ隔てて、高野山大安楽寺という寺があり、その狭い境内に、山岡鉄舟筆の「為囚死群霊離苦得脱」の文字を刻む碑がある。

 このように、伝馬町獄は、いろいろな種類の、数多くの人を収容し、断罪したところであるが、殊に苛烈を極めたのは、安政五年九月から、六年十二月にかけての、いわゆる安政の大獄であった。

 大獄の発端は、幕府が勅命を奉ぜず、条約調印を専行して、しかもその結果を、宿次奉書の略式を以て奏上、斉昭らが幕府を詰ったが却って罪せられたとき、朝廷から、「三家親藩以下衆議を固め、この外患の故に、よく内憂を無くして協力する様」との勅諚を、先ず水戸藩に下された時にあった。

 この勅書を奉じて、江戸にゆき、水戸藩主に渡した、薩藩の日下部伊三次と、水戸藩の鵜飼幸吉は、その父鵜飼書左衛門と共に捕えられ、伝馬町獄につながれた。きびしい訊問をうけたが、日下部は黙して答えず、逆に幕吏に対して、幕府の失政を語り、こんな風では三─五年の無事も保ち難い、と断言したので、幕吏を激怒させたという。この年十二月十七日、獄中に病死、享年四十五歳であった。鵜飼父子は、翌六年八月、この獄に刑死、その上、幸吉は梟首の酷刑に処せられている。父は六十二歳、子は三十二歳であった。

 このほか、鷹司家の諸大夫、小林民部は、青蓮院宮・近衛・三条らの門に出入し、日下部伊三次・橋本左内らと共に、尊攘の促進を図った。密勅事件で掃えられ、六年八月、遠島の刑を申渡されて、伝馬町獄に移されたが、十一月ここで病死した。五十二歳であった。後日、松陰の遺骨改葬のとき、一緒に若林(世田谷区)に移されて、墓石を並べられた。

 鮎沢伊太夫は、水戸藩士、桜田門外の変の指導者、高橋多一郎の実弟で、鮎沢家を嗣ぎ、勘定奉行まで勤めたが、水戸への密勅を、列藩に伝達せよと上書し、捕えられて、六年八月から十一月にかけて、伝馬町獄にあり、のち佐伯藩に禁錮された。堀江克之助は水戸藩の郷士、文武の道を修練して、藤田東湖や武田耕雲斎などの門に出入し、嘉永六年以来、国事に奔走した。米国総領事ハリス要撃を策した罪で、この獄につながれ、松陰と交わる。のち赦されたが、文久元年の高輪東禅寺襲撃に加わって投獄、維新後釈放された。

 こうして、いずれ劣らぬ憂国の志士たちが、この獄につながれ、あるいは病死し、あるいは刑死していった。そして、中でも注目されねはならぬのは、吉田松陰と橋本左内である。

 橋本左内は、天保五年、越前藩藩医の家に生れた。英俊のほまれが高く、十二歳、崎門学統の吉田東篁に学んで、学問の筋を正した。十四歳、宋の忠臣岳飛を慕って、景岳と号す。十五歳で、世に有名な『啓発録』を著し、十六歳には、大阪の緒方洪庵の適塾に入り、蘭医と蘭書を学ぶこと三年、十九歳で帰郷、家督を相続した。二十一歳で、恩師東篁の母の乳癌を手術。これから両三度、江戸に遊学して、藤田東湖・西郷南洲らの俊英と交わっている。

 二十五歳、京都に派遣されて、有志の公卿三条実万に会い、内外の情勢と日本の進むべき方向について、切言した。これが安政五年二月であり、もはや幕府の力では、内外ともに処理できない段階に、達しつつあった。四月には江戸に引き返し、英明の聞え高かった一橋慶喜(斉昭の子)に、将軍を嗣がせることと、井伊直弼の排撃とを図って、活躍した。この月、江戸町奉行によび出され、謹慎を命ぜられ、翌六年正月以降、引続き糺問されたが、十月二日、伝馬町の獄に下り、七日には早くも処刑された。齢まだ二十六歳であった。

 崎門の学統に育ち、東湖を通じて水戸学に触れ、洋学も緒方塾でしっかり学んだ。この天才の見解は、接触する人を驚嘆させた。先の三条実万への、上書の要旨を見ると、(1)近来西洋諸国は、非常な技術の進歩に伴い、商業貿易政策が、極めて積極的となっている。従って、我国への開国貿易の要求も、頗る強硬である。(2)しかしながら「叡慮は初より通商御好み遊ばされざる事、御堅確に在りなされ候由」承っている。(3)就いては、イギリスなどのやり方を見ると、日本各地に擾乱工作が行われ、あるいは開戦になるかも知れない。兵器の差、戦闘訓練の開きも大きく、今のままで防禦するのは、極めて困難である。(4)よって先ず、内を固めることが肝要であり、兵備のことも「断然御英断にて仰出され」勇邁英果の将を、選任さるべきである。(5)また幕府の政治は緩んでいるが、未だ暴逆苛烈の悪政はないので、朝廷におかれては、中傷的風評に惑われず、全国一丸となって、対応の大方針を打ち出さるべきである。

 右は、安政五年二月中旬であるが、景岳の国際認識を語るものとしては、その三ケ月前の安政四年十一月、越前藩大目附村田氏寿に与えた手紙に、その雄渾な構想をうかがうことが出来る。

これを要約すれば、

  世界の大勢は、ゆくゆく五大州一図に同盟国になり、盟主を立てて戦争がやむ様になるであろう。指導的役割は、英か露のいずれかと思えるが、英は剽悍貪欲な為、人望はやがて露に帰するであろう。この間にあって、日本が独立独歩するには、満州・沿海州あたりまで併せ、且つアメリカ州・インド内にも拠点を持たねば不可能であって、此は今出来ない相談である。ハリスの口上や、近来両国闘争の迹に徴しても、英・露は並び立たず、従って両者とも、日本を抱き込もうとするだろうが、日本としては露と結んだ方がよろしかろう。その為に、英国の攻撃をうけ、たとえ一旦敗れることがあっても、皆減には至らぬ。逆にそれを機に、わが弱を強に転じ、危を安に変えることが出来る。それ迄に是非とも、露・米から多くの技師を招き、軍事・経済の大改革を行うべきである。之を実現する為、将軍継嗣を定め、志ある藩主以下、藩士・処士に至るまで、広く人材を抜擢重用しなけれはならない。

という。印度侵略とアヘン戦争で、悪名高いイギリスへの警戒、大陸国で海外雄飛の遅れているロシアとの提携諭である。ロシアの南下政策と、イギリスの東方経略が、十字に交錯して火花を散らし、今また日本の近傍で、争覇しようとしていたときのことである。ロシアが信用出来たか、どうかは別として、情報不足の当時、世界的な視野で、危機突破の長策を立てたもの、度量よく世界を呑む慨があるのは、驚くばかりである。

 僅か数日を、伝馬町獄内に過した景岳は、松陰に詩を贈っている。

  曽聴英籌慰鄙情 要君久欲訂同盟
  碧翁狡弄何限恨 不使春帆颿太平


松陰の下田における、米艦搭乗の失敗を惜しんだものである。そして松陰は、その翌日、景岳らの死を悼んで弔歌を手向けているが、『留魂録』にも、景岳と獄房を共にした勝野俣三郎が、松陰の獄房に移って来たので、話を伝え聞いて、大いに哀惜し、

  予勝保ノ談ヲ聞テ益々左内ト半面ナキヲ嘆ス、左内幽囚邸居中、賢治通鑑ヲ読み、註ヲ作リ漢紀ヲ終ル、又獄中教学工作等ノ事ヲ論セシ由、勝保予力為メニ是ヲ語ル、獄ノ諭大ニ吾意  ヲ得クリ、予益々左内ヲ起シテ一議ヲ発センコトヲ思フ、嗟夫、

と、書き留めている。ここにいう獄の論は、獄は悪を懲らすだけでなく、善を勧めるところである筈だが、今日の獄は、ただ悪を助長する所になっているので、獄制を正し、教師をおいて教育すべきである、との論旨で、松陰もこれを考え、自ら同囚に実行して来たのであった。

 松陰その人については、講孟箚記のほかにも、断片的に語って来たが、その三十年の生命の終るとき、光芒はさらに高く強く輝くのを見る。安政五年の違勅条約以来、時事を憂いてやまぬ松陰の言動は、藩当局を刺戟し、借牢願出の形式で、野山獄に投ぜられたのが、十二月末であった。明けて六年、獄中から檄をとばし、策を授けて、知友・門下生を動かすが、四月、ついに幕府から召喚の命が下り、五月二十五日萩を出発、江戸長州藩邸に護送されたのは六月二十四日で、七月九日には、伝馬町獄に下った。

 いよいよ江戸へ出発という日の、三日前の五月二十二日、萩においての、最後の教を書き残す。

『照顔録』である。これは僅か十六条の短文だが、古人の言行に託して、その昂揚した心境を一気に吐いたもの、読む者の肺腑を衝いてやまない、大文章である。題名は、文天祥正気歌の末尾、「風簷展書読 古道照顔色」にとったもの、

  今吾れ将に去らんとし、平生の万巻、要するに皆索然、反って一両句の耿耿として顔を離れざるものあり。多事卒卒、細録する能はず。摘録数条、自ら是れ心赤の話頭、観る者幸いに之を存せよ。

の序文に、その趣意は明らかである。

 本文は、伯夷・叔斉が、武王の放伐を諌めて聴かれず、周の粟を食うのを愧じ、首陽山にのがれて餓死した故事に始まり、文天祥の大節を称揚するに終る。この短い文章を、さらに短く区切って、その二、三をあげて見よう。伯夷・叔斉については、「叩馬而諌」をとり出して、

  是夷斉初次ノ狂挙ノミ、唯此狂アリ、故二能西山ノ高節ヲナス

といい、大将軍仇鸞の罪を糾弾し、また奸臣厳嵩の罪奸を弾劾して、その身を殺された明の楊継盛については、

  故ラニ豪語ヲナスニ非ズ、自ラ一死ヲ期ス、他人温慰ノ語、却テ肝胆二合セズ(中略)因テ恩フ、古ノ豪傑、皆真情直二露ルルモノ也、大事ニ臨ミ無情ナルガ如キハ、多情ノ極卜知ルべシ

と述べ、程嬰・田横客・貫高が、それぞれ節に殉じて、従容自決したことに共鳴して、

  比諸人ノ死、死友二負カズト謂フベン、死友二負ク者、安ゾ男子卜称スルニ足ンヤ趙肥義日、死者復生、生者不愧、是ヲ謂ナリ、随園詩話日、莫憑無鬼論、遂負托孤心、此句吾甚感ズ、不愧不負、是等ノ字面、着箇二情アリ

と誌した。匈奴と和議し、上皇英宗が人質となった正月、心なき群臣が賀詞を述べるのをたしなめた明の楊善については、

  カカル誠意ナクテハ、上皇ヲ奉迎スルノ大業ハ成ラザルナリ、後世ヨリ見レバ、当然ノ事ノ如シ、身其地二在テ思却テ、爰二至ラス、誠意ナキヲ以テナリ。

という。王葬が漠を奪い、名臣襲勝を招碑しょうとしたが、これを退けて餓死した苦節、またその仕えた貌王曹芳が廃せられたとき、箔文条はこれをいたみ、発狂をよそおい、串の中に寝起きして外に出ず、口をきかないこと三十六年、ついに串上に八十四歳の生涯を閉じた音節を偲んで、

  餓死卜黙死ト、天下ノ苦節卜云フベン、如レ此ノ其骨頭ナクテハ、男児卜称スルニ足ラズ、夷斉以来ノ人物、尊尚ニ堪へズ、

と述べる。言々血を吐く思い、これが絶筆の留魂録まで、一直線につながる。

 この照顔録から留魂録までの五ヶ月は、私などが何度生れ変っても、体認できないような、密度の濃い日々が、窮屈な囚人駕籠や、ここ伝馬町の獄房で送られている。数々の手紙にも話され、留魂録もその書き出しが「余去年已来心蹟百変、挙て数え難し」で始まる程、その時、その相手次第で、自在な表現が行われて、何のこだわりもない。しかしそれを一貫して支えるものは、照顔録に溢れている誠意・真情・節義であった。

 平生読んだ万巻の書は、あとかたもなくても「一両句の耿々として顔を離れざるもの」は、まさにその学問の結晶である。死の一字に工夫を凝らすのも、至誠而不動者未之有也の一句に心魂を磨くのも、吾若シ死セズンバ勃々クルモノ決シテ汩没(こつぼつ)セザルナリと生をねがうのも、決して別事ではなかった。

 萩を出てから、江戸に着くまでの一ヶ月、筆墨を持たない松陰が、口吟して護衛の者に筆記させたものに、漢詩集の『縛吾集』があり、歌集の『涙松集』がある。江戸に着いてからは、数多い手紙が書かれているが、当時江戸にいた、高杉晋作に与えたものが一番多く、同獄の堀江克之助・鮎沢伊太夫に与えたものがこれに続く。父兄に対しては、心配をかけぬ配慮か、直接の文通は少なかった。

 堀江宛ての手紙は、十月十一日のが現存の最後のものであるが、この中に、

  天照の神勅に日嗣之隆与天壌無窮と有之候処神勅の相違なければ日本は未だ亡びず日本未だ亡びざれば正気重て発生の時は必ある也只今の時勢に頓着するは神勅を疑の罪軽からざるなり

とあり、これには「小生兼て同志と相励み候一論申上候」と、前書きしてある。神皇正統記にも見て来たところ、先哲一生を捧げつくしての大信、かりそめの心で読みとるべきではない。

 父杉百合之助、叔父玉木文之進、兄杉梅太郎に贈った手紙は、すでに死刑を覚悟した後の十月二十日付で平生之学問浅薄にして至誠天地を感格する事出来不申非常之変に立到り申候嘸々御愁傷も可被遊拝察仕候

    親思ふ こころにまさる 親ごごろ けふの音づれ 何ときくらん

乍去去年十月六日差上置候書得と御覧被遊候はば左まで御愁傷にも及不申と奉存候尚又
当五月出立之節心事一々申上置候事に付今更何も思残候事無御座候此度漢文にて相認候語諸友書も御転覧可被遊候幕府正義は丸に御取用無之夷秋は縦横自在に御府内を致跋扈
候へ共 神国未だ地に墜不申上に 聖天子あり下に忠魂義魄充々致候へば天下之事も余り御力御落無之候様奉願候随分御気分御大切に被遊御長寿を御保可被成候以上 十月廿
日認置


とあり、また、実母・養母・三人の妹にもそれぞれ言葉を添えている。

 この日は、別に、語諸友書を認め、飯田正伯・尾寺新之丞に与える書、入江杉蔵に与える書二通が認められている。その入江に与えた最後の書には、留魂録にも書き残した、京都に大学校を創建したいとの念願を、より詳細に誌してある。それは堀江の持論であった所の、「神道を明白に人々の腹に入る如く書を著し 天朝より開版して天下に
御頒示被成度」との祈念は結構だが、教書だけでは天下の人心は定め難いので、

  京師に大学校を興し上 天子親王公卿より下武家士民まで入寮寄宿も出来候様致し乍恐天朝の御学風を天下の人々に知らせ天下の奇材英能を 天朝の学校に貢し候様致候得ば天下の人心一定仕るに相違なし

と、天子・親王から士民に至るまで、共に学ぶ大学校建設を考えた。非常の時勢に、学校建設など難しいと思うだろうが、それには対策があると、既存の学習院を基礎に、その方策を展開している。

 その学問の筋目を正すためには「朱子学じゃの陽明学じゃのと一偏の事にては何の役にも立不申、尊皇撰夷の四字を眼目として何人の書にても何人の学にても其所長を取る様にすべし」といい、「本居学と水戸学とは頗る不同あれども尊攘の二字はいづれも同じ」で、平田学はもちろんのことである。幕府の御用学者達は「道春以来、新井・室・祖徠・春台等皆幕に佞しつれども其内に一二ケ所の取るべき所はあり」、その他「伊藤仁斎などは尊王の功はなけれども人に益ある学問」と、すべてを取り入れるよう主張した。

 この学習院の中には、尊攘に大功あった人物の神牌を設けること、「菅公・和気公・楠公・新田公・織田公・豊臣公近来の諸君子に至るまで」と述べる。近来の諸君子の中には「兼て御話し申候高山・蒲生・対馬の雨森伯陽・魚屋の八兵衛の類」が入れてある。これは「中々大議に付天下の人物を究めねば不出来」、人物をあつめることが難しいなら、人を派遣し、その議論を聞きあつめて、京都で大成したらよろしいので、

  此議論中に天下の正論大に起るべし又水戸日本史の後も無之 天朝六国史の後も欠く 天皇の御諡号も光孝天皇までなり其後の帝紀御選述諡号御定等勅諚にて学習院に被仰付度事也尤も是は書籍と人物と大に学習院に集りたる上の事也

と、壮大な規模を示している。

 刑死の前日、安政六年十月二十六日、同志の知友門下生への遺言書『留魂録』が、書き残された。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし 大和魂」と、十月二十五日の詠を掲げ、留魂録と名付けたのである。忽忙の間、文は必ずしも整合されてないが、最も率直で飾らず、取調べ中の心境も赤裸々に述べたこの一文は、静かに深く、そしていつまでも、人の心をうつ調べがある。獄中に新しく知った人物も紹介して、

  今日ノ事、同志ノ諸士戦敗ノ余、傷残ノ同士ヲ問訊スル如クスべシ、一敗乃挫折スル豈勇士ノ事ナラソヤ、切二嘱ス嘱ス、

と、天下有志の士を糾合せよ、と言い通したのである。末尾に書かれた歌五首の中にも、

  討れたる 吾をあはれと 見ん人は
  君を崇めて 夷払へよ

  愚なる 吾をも友と めづ人は
  わがとも友と めでよ人々

  七たびも 生きかえりつつ 夷を曽(ぞ)
  攘はんこころ 吾忘め哉


とあるように、本書はまさに、後起の同志への、切々たる遺書であった。そしてわれらも、この地を弔って、この遺された教に、心をうたれるのであった。


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2010/8/19  15:24

第59回−水戸  荒尾精

吉原政巳著「中野学校教育」(一教官の回想)に学ぶ −第59回−


   第五章 先烈の遺蹟に立つ


     3.中部より関東にかけて

  D水 戸 


 水戸といえば先ず弘道館だが、その精神については、前章に述べた。諸生派の最後の抵抗に遭い、明治元年、激しい戦火の中に、正門と正庁などを残して、焼失したが、もともとは水戸城三の丸に、壮大な威容を誇ったものであった。敷地面漬五万七千余坪と、他藩藩校と比べて抜群の広さ、二位の金沢明倫館の三倍強という大きさであった。

 文武不岐を謳う弘道館は、大手門に面して正門を設け、東側に、正庁を中心とする文武二館を建て、西側は、馬術・射撃・弓術など武術の調練場とした。中央広場に鹿島神社・孔子廟・八卦堂(弘道銘記の碑を納める)を建て、梅林を造る。さらに医学館を設け、数学・天文・地図・産業などの各局がおかれ、まことに雄大な規模であった。

 文館と総称されたのは、歌学局・音楽局・兵学局・諸礼局などのある一棟と、学生の教室および寮などの数棟である。武館は武道対試場・撃剣館・槍術館・柔術館などであり、ほかに天文・数学・地図館と、医学館があった。また大砲の射撃場と兵器製造所に当る神勢館は、城の東方に離れて設けられており、水泳術は、城北を流れる那珂川で、演練された。

 水戸駅から西へ、直線距離で約二粁、日本三大公園の一つである、偕楽園がある。斉昭の造営で、数千本の梅を植え、好文亭が建てられた。江戸の後楽園は、藩祖頼房がその邸に造り、光圀が後楽園と名付けた。「天下の憂に先んじて憂へ、天下の楽しみに後れて楽しむ」に出るもので、偕楽は「古の人は民と(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」に出るもので共に、政の姿勢を、はっきり示すものである。梅を植えたのも、春に魁けて咲く風雅の友であり、やがて実って民の食となり、兵糧となる、実用を兼ねた用意であった。

 私達が訪れた頃、この公園の東側、常磐神社の隣に彰考館文庫があった。大日本史編纂に関する史料をはじめ、水戸学に関連する貴重な資料の一部を、学生諸氏と共に、見せていただいた。卸蘭語辞典が毛筆で書かれ、活字印刷以上に美しいのにも驚いた。古人悃学の風を、偲んだのである。

 水戸駅より西北方約三粁に、谷中共同基地がある。桜田門外の変・坂下門外の変・元治元年筑波挙兵などの殉難者、千数百の墓石が、ずらりと並んでいて、息を呑む思いにうたれる。皇統が厳として揺がなかった日本の維新は、外国の革命に往々見られる、凄惨な殺戮戦や、革命後の広範深刻な粛清に比べて、犠牲者は少ない。それでも、この墓地に立って見て、維新の成ったのが、けっして容易なことでなかったことを痛感させられる。

 一人の人間が生育するにも、親兄弟はじめ多くの人々の、支えが要る。ましてすぐれた人物の大成玉成を見るには、どれだけ、諸々の力を必要とすることか。われわれが享受する文物も、みな先人の非常な努力の賜物でないものはない。況んや動乱を乗り切っての維新は、多くの人の並並ならぬ努力が積まれ、また進んで茲に殪れていった人々の、殉難の余光に成ったのである。

 水戸を訪れて、われわれが感ずるのは、維新殉難の先駆者の、苦難の道である。真の先駆者は、時弊を打破し、突破口を開くために、流れの淵源にさかのぼって、大本をつかんでいなければならない。方向を示し、旗幟をうち立て、進んで実践し、そしてしばしば中道にたおれ、たとえ事が成っても、寧ろ自ら栄光の座を去ってゆく、これがおおかた先駆者の辿る道であった。

 水戸は、敢えて討幕をいわなかった。ただ終始一貫、尊皇攘夷の、大旆をかかげてやまなかった。この旗は、時流の奔騰の中に、屹然として動かなかった。むしろ時流は、この旗をめぐって、波をあげたのであった。公武合体諭も、また開国論も、浅深の差はあったが、その根底は、尊皇攘夷の精神に、支えられていた。だからこそ日本は、あの未曽有の危機に、ばらばらに分解せず、植民地にもならずにすんだのである。水戸は、先駆者として、大いにここに、貢献したのであった。
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2010/8/16  14:33

第58回−常陸太田  荒尾精

吉原政巳著「中野学校教育」(一教官の回想)に学ぶ −第58回−


   第五章 先烈の遺蹟に立つ


     3.中部より関東にかけて

  C常陸太田

 常陸太田は、水戸の北方約二〇粁、水郡線の終点である。東に星川、西に源氏川が流れ、太田の南部で合して、久慈川となって、太平洋にそそぐ。この両川にはさまれた、細長い台地を、街道が北上する。

 光圀が、元禄四年(一六九一)から、その没年の元禄十三年(一七〇〇)まで、十年間隠栖した西山荘は、ここから西方一粁余の、西山と呼ぶ小さな山の麓にある。現在残っているのは、文化十四年(一八一七)年焼失したのを復原したものであるが、かや茸の屋根、丸太の柱で、北側の窓は棒で明け支える書斎、どの部屋も荒壁のまま、そして御座の間と、御次の間のあいだに、敷居もない。表の方に竹垣一重だけあって、その他は山に続き、囲いは無かった。これが御三家親藩、家康の孫にあたる光圀の隠居屋敷としでは、思い切って、簡素なものであった。清風心を洗う思い、ここに立っての感懐は、静かに深く澄むものがある。

 ここに呼び出されるのは、彰考館の学者達で、大日本史の要所が、点検されていった。地方を周遊する山伏などが、各地の情勢を齋らし、百姓の来訪また気軽に、受け入れられていた。

 水戸家藩主代々の墓地瑞竜山は、ここから四粁ばかりの所にある。光圀は隠栖の年に、歴任の衣冠束帯を埋めて、碑を立てた。碑文は光圀が、自分のことを、簡潔な文章で綴ったもの、陶淵明の高節清貧を慕った光圀が、淵明の五柳先生伝に倣った作といわれる。その人と為りを「物に滞らず、事に着せず云々」といい、清節高雅、飄逸の中に、深く安らかな心の日々が活写されている。そして

  蚤(はや)くより史を編むに志有り。然れども書の徴すべきもの罕(まれ)なり。爰に捜(さぐ)り爰に購(あがな)ひ、之を求めて之を得、微遴(びりん)するに稗(はい)官小説を以てし、実を摭(と)り疑はしきを闕(か)き、皇統を正閏し人臣を  是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す。

と、大日本史編纂の、焦点を明らかにした。兄を超えて、藩主を継いだ始末としても「初め兄の子を養ひて嗣となし、遂にこれを立てて以て封を襲(つ)がしむ。先生の宿志、是に於てか足れり。」と述べている。
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