◎ ブログ天喜神の道「プロローグ」  はじめての方へ
はじめまして、皆さん、ブログ天喜神(てんきしん)の道へようこそ。

当ブログ管理人の「明けの明星」と申します。

私のブログの主な内容は精神世界分野になります。

基本的には、日月神示や聖書をベースとして、様々な書籍、サイト、ブログを参考にしながら、神のこと、世界の構造、未来に起こること、生き方、哲学、世の中の不思議、疑問などを私なりの見方、解釈で語っていこうと思います。

ただし、語る内容はあくまで「私見」「仮説」ですので、決して鵜呑みになさらずに、よく吟味して、自らの自己責任においてご判断下さい。



また、このブログは皆さんに公開しているようで、私自身への「戒め」の為のものでもあります。

ですから「説教的」な場面を読まれても、あまり気になさらぬよう、そこのところはご容赦願います(笑)



それと、このブログのタイトル、内容からして、何かの宗教のようなものに見えるかもしれませんが、何かしらの宗教団体、組織の勧誘、宣伝、回し者、ではありません(笑)

思想的なものを語ってはいますが、それを無理やり押し付けようということもありません。

一個人の単なるボヤキのようなものでもありますので、SFを読むように、安心してお読みいただけたらと思います。



その他として、私のブログのおすすめの見方をご紹介します。

ちょっと面倒ですが、できるだけ、最初から、日付を追って、全ての記事に目を通すことをお勧めします。

なぜなら、ブログの構成的に教科書的に進んでいる場合も多く、途中から見始めた方にとっては、わかりづらくなっている可能性があるからです。

もちろん、リアルタイムの記事のみを見ても、人によっては理解できる方もいらっしゃるとは思います。

ですが、その内容、分析も世間一般常識からは、逸脱した事柄がほとんどになっていると思われます。

その為、ある程度の予備知識、流れを知っていた方が、誤解が防げ、より理解が深まると思われるからです。



その他にも、たまたま見たいくつかの記事を見て否定的反応を示しても、他の記事を見ることによって、ご納得いただける可能性があるかもしれないという配慮もあります。

もし、上記のお勧めの見方にご納得し、最初から目を通された場合、納得できない、理解できない箇所に当たっても、後日に補足訂正している場合もあります。

ですから、それについてはあまり気にせず、そのまま読み進んでいって見ていただけたらと思います。


どうしても、おいそがしい方は、リアルタイムで追いながら、暇を見つけて、過去記事を少しずつ読んでいかれるのも良いかもしれません。



もちろん、あくまで、おすすめの見方ですので、皆さんのお好きなように読まれても問題ありません。



今まで、精神世界分野に少ししか興味がなかった方、もしくは私以上に精神世界分野に精通していて、今更という方にも、他のブログとは一味違う、何か心の琴線に触れるところがあれば良いなと期待してはいるのですが・・・


・・・何もなかったらごめんなさい(笑)・・・


・・・ですから、最初からご覧になって、全ての記事に目を通してみるのも、何か思わぬ新しい発見があるかもしれませんよ(笑)

ということで、どうぞよろしくお願いします。





そして、以下が、当ブログの最初の初投稿の記事になりますので、興味のある方は、初投稿の日から日付を順番に追って、お読みになってみてはいかがでしょうか?
ではごゆっくりとどうぞ。


※ 2010年5月5日当ブログの初投稿記事へ移動。(クリックして下さい。)




最後に・・・常識あるマナーと節度を守っていただけたなら、いかなる異論反論思想もタブーもなく受付けますので、どうそお気軽にコメント下さい。

また、自由に討論できるよう 『 掲示板 』 も用意しておりますので、お気軽にご利用下さい。


5月5日 いついつ出やる スタート
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2010/6/8

当分の間、お休みします。  世界の流れと仕組
諸事情により、当分の間、お休みします。

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2010/6/6

◎ 神の象徴としての生命の樹。  神についての考察

※ はじめての方、当ブログMainの一番上に掲載されている文章を未見の方は必ずお読みください。(クリックして下さい。)


以下は仮説です。


これからは、私なりに神の正体に迫ってみたいと思います。

私程度の人間で、神の正体を語るにはおこがましいところもあります。

ですが、敬神と隣人愛を述べる以上は、神のことを理解しなければいけませんので、つたない知識かもしれませんが、語らせていただこうかと思います。

見えない神の正体、一端を紹介するわけですから、皆さんも全てを鵜呑みにせずに、距離を保って見ていただければと思います。



まず、神の正体を探るうえで、非常に大切な模様、紋様、図形というものがあります。

それが以下の図になります『生命の樹(セフィロトの樹)』と言われるものです。

クリックすると元のサイズで表示します
(左図:ロバート・フラッド『神聖哲学』1626年、 右図:アタナシウス・キルヒャー『エジプトのオイディプス』所収図版1652年)

クリックすると元のサイズで表示します
(飛鳥昭雄/三神たける著『失われたカッパーラ/「陰陽道」の謎』学研、p169 より )

ここ近年では、「新世紀エヴァンゲリオン」や「鋼の錬金術師」などの人気アニメなどで頻繁に目にする図柄なので、見たことのある人も結構いるのではないかと思います。

基本的に言えることは、我々人間は、この生命の樹を下から上昇していき、最終的には上層界にいます神との合一を果たすということを象徴として表していると言われています。



その他にも、この生命の樹の本質を理解できれば、おそらく神、霊界、森羅万象、宇宙、人間、この世の全ての謎を解き明かすことができる、非常に重要な形、基本の形をしているとも言われています。

であるからして、古代から宗教組織、秘密結社、オカルト世界では、非常に重要な図形として研究、伝承されてきたようです。

( この図形が歴史的にいつごろから存在していたかは、秘密結社の人間ではないので、私もよくわかりませんw

ただ、私見を言わせていただければ、この形は、神の象徴そのものを表していますので、地球の歴史でうんぬんという次元ではないと思います。

もはや時間などを超越して、もう既に存在していた、すでにあると表現するしか言いようがないものではないかと推察します。 )



ただ気を付けなければいけないのは、この生命の樹というのは、単純な図柄ですが、森羅万象全ての秘密を内包しています。

ゆえに、解釈を間違う、つまりは、神に対する解釈を間違えることによる精神的自我の崩壊をも起こりえることですので、解釈は慎重にしなければいけないのかなと思います。

素人(お前も素人だろw)が手を出すときには、遊び半分に手を出すのは気を付けなければいけないと思います。

また、この図形は、鏡像などをして見るなどをしないと、真の姿を捉えることができないとも言われています。

その為、間違った解釈をしてしまう仕掛けもほどこされているようですので、その点も注意が必要だということです。



ですから、私は、その鏡像反転や左右上下などの向きの正しさについての考察は、なるべく触れないようにします。

ただ、細かいことは知らずとも、この基本的な形を理解してもらえれば、ある程度の事はわかると思います。

ですから、よく知らない人は、この図形が神を知るうえでの重要な基本の形となりますので、おおまかな形、位置、名称だけでも覚えておいてください。



それでは、以下に簡単な説明をします。


まず、垂直に立っている三本柱を左から順に、

@峻厳の柱、 A均衡の柱、 B慈悲の柱と言います。



そして、この三本柱の上層部から上から順に、

@至高世界(太陽の栄光)、 A中高世界(月の栄光)、 B下層世界(星の栄光)、 C滅びの世界 と言います。



次に○の部分を「セフィラ」といい、複数形で「セフィロト」と言います。

数は全部で10個(ダアト「知識」を入れれば11個、ダアトは上部にある点線の○の位置です。)になります。



次に○を繋ぐ線、棒のようなものを「パス」といい、全部で22本あります。



次に、この○のセフィラにはそれぞれ名称と神的属性があり、図のように上から順番に名称を述べていきます。

@ ケテル(王冠) 
A コクマー(知恵) 
B ビナー(理解)、 
C ケセド(慈悲) 
D ゲブラー(峻厳) 
E ティファレト(美) 
F ネツァク(永遠) 
G ホド(峻厳) 
H イエソド(基礎)
I マルクト(王国)となります。



また、このセフィラにそれぞれ旧約聖書のモーセの十戒が対応されています。

@ケテル   ⇒  わたしのほかに神があってはならない。
Aコクマー  ⇒  いかなる像も造ってはならない。
Bビナー   ⇒  神、主の名をみだりに唱えてはいけない。
Cケセド   ⇒  安息日を心に留めこれを聖別せよ。
Dゲブラー  ⇒  父母を敬いなさい。
Eティフアレト⇒  殺してはならない。
Fネツァク  ⇒  姦淫してはならない。
Gホド    ⇒  盗んではならない。
Hイエソド  ⇒  隣人に関して偽証してはならない。
Iマルクト  ⇒  隣人の家を欲してはならない。



基本的な構造を再度繰り返しますが、

三本柱の構造(峻厳、均衡、慈悲)

階層が三階層(最下層を入れて四階層)

セフィラが10個(ダアトを入れて11個)

パスが22本

という風になっています。



これ以上の深い知識は私の説明にはおそらく不要になりますので、もっと深く知りたい人は、他のブログで、もしくは秘密結社にでも入会して教えてもらってください(笑)

ただ、本当の神界世界を目指す人にとって、大事なこと、心の中心に据えないといけないのは、あくまで『敬神と隣人愛』であると私は考えます。

ですから、この生命の樹の知識は、それを補完、補足する資料のようなものです。

知識のみにこだわると、生命の樹を逆さまに落ちる、死の樹(ルシファー的逸話、知恵の木、いずれ説明します。)に陥ってしまう可能性がありますのでその点だけは注意されたほうが良いと思います。
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2010/6/3

◎ 余談、世界の中心で愛を叫ぶ!?  私は何者?妄想話
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以下は仮説です・・・


皆さんに対して、私はいろいろなことを語ってきました、いや、えらそうに語ってきました(笑)

世界の大まかな仕組、これからの流れ、エネルギー採取の話、敬神と隣人愛の重要性、道徳的なことなどをです。

そこで、皆さんは思われるでしょう。

「言っている、肝心なお前はどうなんだよ、自らができるのか? お前は単なる底辺失業者半ニートの社会のゴミクズで、人に対して説教を言えるのかと。 だいたいそのようなお前に言われたくないし、その資格もない!」

おそらく多くの人がそう思うのではないでしょうか?

実にいい問いかけですね(笑)

まあ、以下に話す内容は、その問いに対する究極の妄想的答えになります。

以前話した内容と重複するところと長文な面がありますが、まあ我慢して見てください。



・・・結論から先に申し上げれば、敬神と隣人愛の重要性、これを真っ先に理解体得するべきなのは、実は、この私なのかもしれません。

極論を言えば、世界で只一人、私だけでもいいから、マスターできれば、それでいいのかもしれません。

なぜなら、その為にこの世界はできている、つまり、この世界は、私に対する大いなる更生施設のようなものだからです・・・



だから、本来、皆さんは、私の言うことなどに耳を傾ける必要はなく、自らの好きなように生きていただいて構わないのではないかと思います。

私の良い意味でも、悪い意味でも教師として、人生を謳歌して生きていてくれれば、それで良いのです。

皆さんの人生を、私が見て、勉強させていただければ、それで良いのです。

ただし、その生き方によって、その後の皆さんの末路がどうなるかは保障できかねますのでご注意ください(笑)

しかし、仮に皆さんが好きに生きられたとしても、私本人が道を大きく外して生きるのはどうも許されないようです、いや許してはもらえないみたいです。



どうしてか?

皆さんは、西遊記の孫悟空をご存知だと思います。

孫悟空は、非常に暴れん坊ですよね。

でも、孫悟空が道を外したときには、三蔵法師の念により、頭に被せてある緊箍児(きんこじ、輪っか)を締め付けられ、その苦痛により、反省を促されます。

これと同じような働きが私に対してもあり、私が道をはずすような行動(人の悪口、いじわる、憎しみ)をとると、すぐに、私を苦しめる何か(精神的、肉体的な苦しみ)が必ずやってきます。

そこで、私は苦しみゆえに気付き、反省を促されます。

まるで、何ものかに調教されるかのように・・・・・

( ちなみに孫悟空は、スサノオの象徴でもあります。

また、饒速日命「ニギハヤヒノミコト」の図で、頭にもキンコジみたいのがついていますね。

ですから、孫悟空=スサノオ=ニギハヤヒ=神武天皇=(型)=私?の可能性もあります。 

最後の「私?」は邪魔かもしれませんがw )



これらのことを、別のもので例えていえば、今、放送中のテレビドラマ「怪物くん」が該当しますね。

お父様である大王から、王子である怪物くんは、あえて「怪物ランド」を追放され、人間界で修行をさせられています。

まさにこのような状況でしょうか?

( この時期にこういう風にジャストタイミングで放送しているところに何かしらの神の意思を感じてしまいますね、私的には。 

もちろんTV局などはそういうことを意識はして作っているわけではないとは思います。

それと、西遊記にしても、怪物くんにしても、こういう寓話の中に実は真理は隠されている感じはしますね。

リアルドラマの方が逆にウソくさい場合が多いです。

リアルに見せかけて、逆に何かを刷り込もうという意図が見えます。 )



とにもかくにも、私は非常に出来の悪い息子なのでしょう。

(ゆえに天界から追放されたルシファーの逸話があるのではと思います。 ただしルシファーには一般的に誤解があるようなので、そこのところはいつかお話できればと思います。)

そこで、三次元地球世界に送り込まれ、様々な体験を経験し、「悪を抱き参らせる」ところまでを学習させる。

様々な経験と言っても、肉体的快楽を楽しむような経験はあまりさせてもらえないようですね。

そんな物質的快楽に溺れた生活では修行にならないからだと思いますが。

どちらかというと、世間では負け組み(独身、派遣工、失業、ニート)と言われる経験をさせてもらえる方が多いです(笑)

理不尽な立場に置かされ、人から否応なく馬鹿にされ、もどかしい、くやしい、苦々しい思いも体験する。

「どうだ、わかるか? くやしいか? みじめか? 自分が情けないか? 人から理解してもらえないその苦しみ、存分と味わうが良い。」と天なる鬼の父の声が聞こえてきそうです(笑)



[・・・もちろん、神を、自らをもっと理解したい願望により、一時的に自分から仕事を離れ、調べものに没頭することもあります。

仕事なんかしている場合でない、神のこと、世界のこと、自らのことを知るほうがもっと重要ではないかと・・・

その過程で、驚きの発見をいろいろし、何なんだこの世界は、自分はいったい何者・・・もう後戻りはできない(笑)・・・・

無論、貯金などをして、周りには迷惑を最小限にするよう心がけていますけどね・・・でも、周囲から見たら、いい年超えたキチ○イおっさんのようにしか見えないでしょうから、やはり家族とは衝突はありましたけどね・・・

ただ、今現在は不思議と家庭内は比較的平穏ですね、ニートもどきなのにw  

お前はブログでも書いてろという天の計らいでしょうか? そんなわけはないかw


でも本当は、今現在働いているはずだったんですけどね・・・

諸事情によるトラブルで、働けなくなり、おかげさまで、このようなブログを始めることになってしまいました。

なんでこんなことをしているのだろう?(笑)

こういうところも何か誘導させられているような気がしないでもないのですけどね。


ただ、私が本物ならば、これだけでは終わらせてはくれない可能性も高いとは思います。

ということで問題はこれからですね、ブログの存続、仕事、家庭問題、さてどうなることやら、・・・このままいったら私の人生かなりヤバイですね、まさに崖っぷち、崖の上のポニョ状態です(笑) ・・・]



そういう紆余曲折の人生の流れの中で、私が、神(日月神示など)と心と口と行、真の「敬神と隣人愛」を体得した時、真なる「尊ミコト」と成った時を持って、地球三次元世界での修行の終了となる。

それと相まって、今のこの現実世界は、その役目の終わりを迎える、一旦終了なのではないかと思います。

ただ、その過程で、ある程度の荒波は覚悟しなければいけないのではないかと思います。



ところで「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマが以前ヒットしましたが、その題名は私に向けての神のメッセージに感じますね。

もっとくわしく言えば、「世界の(精神的、雛型的)中心で(神への、人への)愛を叫ぶ(ブログなどでw)
」ということでしょうか(笑)



そして、その荒波大峠(できれば最小でいてほしい)の過程を経て、世界は、人類は次のステージとなる弥勒の世に移行するのではないかと考えています。

だから、皆さんには反面教師よりかは良い教師となって、私を導いてもらえたらなと思っています(笑)

(いやいや、お前が本物なら、お前が導けだろw )

でも、真の体得とは、実は私だけでなく皆さんの多くも体得していることが含まれているのですけどね。

究極は、私と皆さんはイコールで結びついていますから、ある種、一蓮托生の間柄なのです。



だからと言って、私も含めて自らを急かさないで下さいね。

時を経て、ある段階を経て、徐々に体得できるようにプログラム(流れ、法則)がしてあるようなのです。

ですから、急ぎつつも気長にという、そんな感じで対応をお願いします(いや、何の対応だよw)



・・・という妄想話を披露してしまいましたが、いかがですか?

でも、本当にそう思いたくなりますね。

世間の多くの人を見ていると、自分で自分の首を絞めているように見えますからね。

なぜ気付かないのだ、なぜ理解できないのか、いい加減このマトリックス世界から目を覚ませよってね。

わざとやっているんじゃないかと疑いたくなります。

この私の為に、反面教師としての役目を背負って、生きているのではないかと思ってしまいます。



でもこの状況は、神から見たら、私もこういう風に見えるのかもしれません。

「おい、○○(私の名前)、お前こそ早く目を覚ませよ!」(笑)

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2010/6/1

◎ 究極の隣人愛とは、一切を受け入れ許し、悪さえも許し、抱き参らせること。  世界の流れと仕組

※はじめての方、当ブログMainの一番上に掲載されている文章を未見の方は必ずお読みください。(クリックして下さい。)


以下は仮説です。



「隣人愛」とか「愛」とかいいますが、この「愛」とはいったい何でしょうか?

人はよく言いますね、「愛が大事だ」、「愛こそはすべて」、「愛している」などですね。

一般的解釈として、「相手を思いやり、大事にする、かわいがる、好きになる」のような感じかなとは思います。



日月神示や聖書のイエスなどが訴えている「愛」とはいかなるものなのでしょうか?

人それぞれ解釈があるとは思います。

私が解釈する「隣人愛」の定義、その究極のものとは、ズバリ、題名にも書いてありますが、「森羅万象一切を受け入れ、許し、悪さえも許し、抱き参らせる。」なのではないかと思います。

ここで勘違いしてはいけないことは、悪を許すのだから、悪を進んで好んでしていいのか?と捉える人もいるかもしれませんが、もちろんそういうことではありません。

つまり、もっと大局的な視点、神の視点で物事を見るようにし、悪を一つの働きとして捉えることができるようになるということなのだと思います。



自分を好きになってくれる人、崇拝尊敬してくれる人、大事にしてくれる人だけを愛することが、隣人愛ということではないと思います。

これでは単なる自己愛に近いでしょうね。

自分を毛嫌いし、馬鹿にし、憎む人さえも、許してあげる。

究極的には、自らに危害を加え、殺そうとしているものたちに対してでさえ、許し、愛を注ぐことができるようになること。

これが究極の隣人愛なのではないのかと思います。



事実、これができるようになれば、悩みもなくなるのではないでしょうか?

我々のストレスの多くが実は対人関係(人からの攻撃、エネルギーを簒奪される)にある場合が多いのではないかと思います。

ですから、その行為に対して、許すことができる、何も思わないのですから、もうこれは「悩みが無用」ということになり、まさに解脱をしたことも同然となるのではないかと思います。

もちろん、今の私たちに、この心境を体得せよと言っても、おそらく無理でしょう。

このレベルはさらに喜びを目指す人たちの目標、段階を追って理解していくものでしょうから、今のところはそういう考えがあると理解する程度でいいと思います。



では、今の我々ができる最低限の隣人愛のライン、スタートラインとは何でしょう?

これはあくまで私の意見ですが、「相手に対して、意図的に、精神的にも肉体的にも嫌がること、攻撃をしないこと」なのかなと思います。

もっと簡潔にすれば、「人の嫌がることをしてはダメ」ということです。

( もちろん、嫌がることをしてはダメと言っても、完全に相手が間違っている方向に行っている恐れがあるのに、相手が嫌がるからと言って、間違いを指摘しない、制止しないというのは逆に悪を助長している恐れがあるので、そこら辺は状況判断だとは思います。 場合によってはおせっかいになってしまうので難しい面はあると思います。 )

これを皮切りに、スタートラインとし、上記に述べた究極の隣人愛に至ることができれば、いや、敬神と隣人愛をセットとしてできれば、あなたもりっぱな喜びに満ちた「キリスト」となることができるのではないでしょうか?



と言っても、皆さんの多くは「悪を許すだぁ? そんなもの許すことなんかできるわけないだろ? 馬鹿いうなよ。」と思われるかもしれません。



でもイエスは言っています。

「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5章39節)

「しかし、私は言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)


日月神示も言っています。

「・・・悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ、この道理 腹の底から判りて、ガッテンガッテンして下されよ。・・・」(空の巻 8帖)

「・・・悪をきらふ心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。・・・」(五十黙示録 竜音の巻 17帖)

などと、神は伝えてくれています。

憎しみの連鎖が、喜びではなく、際限のない争いに結びつくことであることを教えてくれています。

それに終止符を打つことができるのは、自らの心の在り方であることを伝えてくれています。



でも日月神示は、実はさらこのように言っています。

「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申してゐるが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを心の中にもっているから打たれるのぞ。マコトに居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけて下されよ。笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ。世界一家天下泰平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ。」(五十黙示録 極めの巻 15帖)

要は、敵を作り、人から憎まれる、打たれるようでは、まだまだダメ、修行が足りないですよと。

神のおっしゃることは奥が深いですね(笑)



でも、これらをできるようになるには、もちろん元々の先天的な性格(やさしい性格など)もあるかもしれません。

ですが、神を本当の意味で理解し、敬うことができれば、多くの人が、真の隣人愛をできるようになることなのではと思っています。

前の方の記事でも、語ってもいますが、敬神ができれば、隣人愛は自ずとできるようになっており、必ずセットになっています。

ということは、敬神をしているが、隣人愛ができない人はおそらく偽神崇拝(幽界との感応が強い人)の疑いが濃厚だと思います。

ですから、私たちも、そういう風になっていないか、常に自らを省みなければいけませんね。


ということで、これからは、その肝心の神の正体を、お話していければと思います。
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2010/5/24

◎ この世界の大まかな仕組・・・その復習。  世界の流れと仕組

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以下は仮説です・・・


私としても、話す内容の区切りが出来たので、今まで話した内容の大雑把な復習でもしていきたいと思います。



まず、我々の住むこの世界は、実は上位にいます神々のプログラムの世界、法則、流れの中に存在しているのではと思われます。

我々の人生は、車のハンドルのように多少の遊びがあるかもしれませんが、大方、決められた方向に誘導させられている、動かされていると思われます。

ただ、現在の我々には、そのある程度決められていると思われる人生の流れと結末を正確に知る術がないので、どのみち自由と同じこと(ある種の錯覚、映画の主人公と同じ)でもあるとも思われます。



また、この世界は神々のプログラムであるゆえに、全てが必要なものとして存在しているようです。

悪的なものさえも必要なものであり、無駄なものは一切ない、そして全てが良いということが言えるらしいのです。

しかし、いくらすべてが必要、必然だとしても、現在の世界のように、善悪の順序が逆の世界、悪が幅を利かせている世界、体主霊従、主客転倒している、バランスの悪い世界がこれ以上続くことは、神々にとっても、苦しい世界なので、これから、霊主体従の世の、元に戻すために、荒療治、世界の洗濯、大掃除が待っているようです。

そして、今のこの世界を、精神世界では、地球の夜明け前とも表現されています。

すなわち、夜明け前が一番暗い(苦しい大変な世界)ということです。



そして、地球の大掃除の過程として、人は大枠として、三つの方向にふるい分けられていくということです。

一つ目が、神と愛を主体として生きる人々、二つ目が、学や智を主体として生きる人々、三つ目が、物質的快楽にしか興味がない人、ということです。

最終的には、一つ目の人が天国界(神界)、二つ目の人が地獄界(幽界)、三つ目の人が再度輪廻転生(顕界、地球のような世界)の道を進むと思われます。



この一つ目の人を救済する目的、指針として、聖書や日月神示は、この地球世界に降ろされました。

ですから、本当の選民と呼ばれる人たちは、実はこの一つ目の人たちが対象になるのです。



そして、その救済する方法を簡潔に述べれば、それは、神への敬いと隣人愛の行いという、たったこの二点に集約することができるようです。

また、神の世界を学べば、世界はすべてが繋がっているということに気がつきます。

ですから、神への敬いと隣人愛を行うことは、他の為の行為だけということではなく、自らを大事にすることに繋がる行為なのだということも理解します。

多くの人が、敬神と隣人愛を理解実践できるようになれば、己の心に天国を築くことにもなり、それと同時に世界に真の平安なる世界(ミロクの世、千年王国)が現出するようになるようです。



この敬神の行いを縦(|)、隣人愛の行いを横(―)で表し、それを合体させた象徴が、キリストの十字(十)の意味のひとつではないかと思われます。

そしてこのシンボルは今や世界中で見受けられますが、実はそのキリストの本家本元の流れが、日本に来ているようなのです。

日本の歴史の渡来系の秦氏などの痕跡を追えば、おのずと見えてくるようです。



それだけでなく、イスラエル12氏族の血の流れが全てが日本に集結しており、遠くない未来に起こるであろうアセンション的イベントにおいて、日本人が大きく関わるであろうことが予想されます。

つまりは、この選民と呼ばれる人たちは、実は日本人の大部分が相当するということが言えるのかもしれません。

ただし、選民だと思って、自惚れ、天狗になると、すぐさま地獄界へ転落してしまうようなので、常に自らを戒めておく必要があるようです。



今世界を蝕む大きな原因の一つが、人類の飽くなき欲望です。

それは、多くの人が、自らの内にいます神を蔑ろにし、自らの外側にある様々なエネルギーばかりを熱心に摂取していることから起こります。

多くの人は、感謝などにより、内部にいます神からの愛エネルギーを受け、それを他人に流す(隣人愛)ことによって、神からさらなるエネルギーをいただき、喜ぶことができるようになっています。

そうすれば、今の現世界のように、他を蹴落としてまで、多くの犠牲を通してまで、エネルギーを蝕むことも少なくなります。

そして、この敬神と隣人愛の行いを中心に据えて、理解実践できれば、最終的には、世の中の問題のほとんどが片付くようにもなっています。



また、この法則方法(敬神と隣人愛)をマスターすれば、これから訪れるであろう、世界の大掃除、大峠をある程度は、緩和して乗り切ることができるようにもなっているようです。

田舎に疎開して、備蓄だけしていれば助かると思うような、あまい世界が来るようではないようです。

その為、上記二つ目、三つ目の人たちのように獣的心に染まった人たちは、その自らの心の持ち方ゆえに、これから先非常に苦しい状況に陥るようです。

ですから、心ある人は、この道(敬神と隣人愛)を選択してみてはどうですか?というのが、このブログの今までの趣旨となります。

でも本来は、日本人よ、早く改心して、この道(敬神と隣人愛)に目覚め、世界を平和に治めるように勤め、神の元に帰ってこ〜いよ〜というのが、より近いかもしれませんね(笑)



・・・どうでしょうか?

かなり大雑把でしたが、ある程度の概略はつかめたかとは思います。

これを始めて読んだ方は、何を言っているのかよくわからないとは思いますので、このブログを最初から読んでみてはいかがでしょうか?

それでも、細かいところは、まだ話をしていないので、納得いかないところもあるかも知れません。

ということで、次回からは、少しだけ細かいところをお話していければと思います。
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2010/5/22

◎ 敬神と隣人愛は必ずセット、二つで一つの十字の行い。  世界の流れと仕組

※はじめての方、当ブログMainの一番上に掲載されている文章を未見の方は必ずお読みください。(クリックして下さい。)

以下は仮説です・・・


我々現代人の多くは、「隣人愛」、「愛」という概念はなんとなく、理解しやすいですよね。

昨今はボランティアやNPOといったものも盛んです。

また、映画やドラマ、アニメやマンガなどでも表現されています。

「愛は○○を救う」という番組やら、「愛」を綴った歌も多いですし、基本的に反対する人は少ないと思います。

というよりも、人類普遍の生き方ではあると思います。



でもですよ・・・

この隣人愛、もしくは隣人愛もどきとよばれる行為だけでは、ダメなんですよね・・・

どうダメかと申しますと、人に愛を与えることだけでは、自らが持たないということなんです。

つまり、愛という行為そのものもエネルギーの一種なので、人に与えるだけでは、自らのエネルギーも減少しているので、いずれ枯渇して、疲れてしまうのです。

これが多くの人が、隣人愛の行為に挫折する一つの原因だと思われます。

せっかく愛を行っているのに、報われず「もーやめた」となるのです。



ですから、本来は、まず最初にしなければいけないのが、神を敬って、自らに神の愛のエネルギーを浴びて、充電することなのです。

そして、その溜まったエネルギーを隣人愛を通して、他人へ放電すると、さらに自らに神からのエナジーが流れてくるという仕組になります。

ゆえに、隣人愛だけでは、ダメだということがおわかりいただけると思います。

その前に敬神をしないと、ただ、エネルギーを消耗するだけで疲れてしまうのですよね。



もちろん、愛を行い、人から感謝されれば、感謝、人気というエネルギーをもらえますから、元気が出てきます。

ですが、皆がすべて、素直に反応してくれるわけではありません。

誤解して怒ってしまう方もいらっしゃるでしょう。

何も反応がない、いいように利用されるだけだと、ただエネルギーを取られていってしまうだけですから、本人はただ疲れてしまうか、逆切れして、おしまいになります。

ところが、そこに敬神が入っていますと、相手の反応にかかわらず、神からエネルギーが流入してくるので、疲れや不満にはなりにくいのです。

ゆえに持続的に隣人愛ができるようになります。

そして、それから、また神からのエナジーが流入してきて、喜び、感謝し、そして隣人愛をまた行い、・・・と以下ループ、心の平安のサイクル状態に入ります。



ということは、神への信仰がなさそうなのに(偽神信仰も含む)、隣人愛らしきことができてるように見える人は、おそらく、それ以上に他でエネルギーをがっぽり得ている人でしょうね。

神から無料の、無尽蔵の愛エネルギーを得ていないのだから、外部から補給してくる他ないですからね。

しかし、外部から得ている以上は、必ず誰かしらが、犠牲になっているので、どうなんだろうかな?
というのはありますね。

表が善人面で、裏で悪人の人がいますが、まさにこの典型ですよね。



ただ、注意してもらいたいのは、神からのエネルギーが0という人は、いませんから。

人は必ず、神からエネルギーを意識的にも、無意識的にも得ています。

ただ、それが弱いか強いかの違いということです。



ということで、隣人愛の前に、必ず、敬神を行い、力を授けてもらいましょう。

そして、この二つの行いは二つで一つ、必ずセットになることになっています。

一方だけでは成り立たないのです。

なぜなら、神を知り、理解し、敬い、自らに受け入れますと、自ずと、隣人愛の行動を取るようになっていますから。

そして前にも言いましたが、この神への敬いを縦の線(|)、隣人愛の行いを(─)の線で表し、この二つを合して象徴としたのが、キリスト教のシンボルの十字(十)となるわけです。

そして、この行いを極めることができると、実はあなたも私も「キリスト」となることができるのです。

これは、公然の秘密なんですよ、実は。



神を敬っているのに、隣人愛が全然できていない人は、おそらく、偽神崇拝でしょうね。

キリスト教徒なのに、残虐な行動をとっているように見える人、

やたらと神を拝んではいるが、行動があやしい人(偽善的、傲慢、ど派手な生活)は、おそらくこれだと思います。

過去の宗教戦争も、これがらみであると思われます。

ただ、偽神とあえて表現しましたが、これも、ある種の神の働きの一面なので、こちらに関しては、また後日にお話しましょう。
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