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02/12記//04/01、04、05、11、15、18追記
02・12記
川崎の太郎美術館から、第15回岡本太郎現代芸術賞展(2/4
−4/8)の招待状をいただいた。
チラシに眼をやると、入選作家のなかに、
「東北画は可能か?」
というおかしなのが混じっている。
人名ではないようだ。グループかな?
東北画ってなんだろう? こりゃ、面白そうだ。
検索してみる。と、山形の美術大学の教員と学生のコラボの名称
であるらしい。チュートリアル?
いや、運動と言うべきか。もしかしたら、少しちがうかもしれない。
それはそうとして、
「東北画は可能か?」−。良くできたコピーだと思う。
問いかけのかたちをとることで、さりげなく−それとも、抜かりな
く?−
東北画という未公認の概念を、いつのまにか「流通」させて
しまっている。
「これが東北画だ!」だと、反発をよびかねないし、
「東北画って知ってますか?」や「東北画しててもいいですか?」で
はいささか卑しい。
「東北画はじめました!」では、あんまりだ。
「東北画は可能か?」−。
この問いかけを、かれらは自分たちとわたしたちの双方に向けて
放っている。
「東北画」−。実に刺激的な言葉だ。
触発される。激しく−。
東北は、未知の精神素のジュエルを秘めた巨大な宝石匣−。
昨日は体調悪く、ションボリしていたのに、この言葉を知って、なん
だか元気がでてきた。
太郎美術館には、いつ行こう?
04・01記
03/30、ようやく太郎美術館に。片道ほぼ2時間半。
アポなしの、しかもブログのための取材でも、すんなり撮影許可が
降りた。この点、川崎市岡本太郎美術館はいつもオープンなの
で、とても助かる。
学芸員の仲野さん、どうもお世話様です!
(気分良く取材できるかどうかは、他館の場合、おおむねヒフティ
ー・ヒフティー。つまり、半数はシラケてしまうということ。
ま、この話はまた別の機会に−。)
今年で15回目になるこの公募展、新人の登竜門として知られ
ている。
今回、797点の応募から24名(組)の作家が選抜された。
さて、リーフレットによれば、「東北画は可能か?」の略歴は次の
ようなものだ。

500x400x400cmの「方舟計画」。素材は綿布にアクリル。
2009年11月、東北芸術工科大学にて、日本画コースの三瀬夏
之介と洋画コースの鴻崎正武により、東北における美術を考える
チュートリアル活動としてスタート。
つづいて、「作家の言葉」をそっくり引用する。
「東北画は可能か?」この問いは、
日本における東北という辺境
において、
その地域名を冠した絵画の成立の可能性を探る試み
であり、
地産地消的アートマーケットや
東アジアへの展開までを視
野に入れた挑戦になる予定で2009年11月に始まった。しかし震
災以後「東北」という言葉には様々な色が付いてしまった。
自己治
癒としての描画と社会へ向けた他者表現の間を激しく行き来しつ
つ、私たち今日も画面に向かっている。正直なところ、まだ明るい
未来は見えそうで見えない。そう、東北画はまったくもって不可能
かもしれない。でもやるんだよ。(色マークは、石川によるもの)
「東北画は可能か?」は2010年東京、山形、青森で、2011年東
京、仙台、福島、奈良で、2012年には東京で、それぞれ展覧・展
示を行ってきた。
まるで、活火山のよう。なぜ、これほどの噴出が起きたのか、興味
は尽きない。

3幅1対画・左翼と中央

同トリプティック・右翼
以下、6点ディテイル
箱舟といえばノア伝説。東北は「日本列島のDNA」の運搬船
か?そういえば高度経済成長の絶頂期に書かれた「日本沈
没」という小説があった。
艶めかしい山。燃え上がる山。寂しい山。掌に載せたい山。
これは東北の山々の「ミュゼ・イマジネール」。
現代美術は、どうして、わたしたちの「故郷」に背を向けるのだ
ろう?
兎や小鮒を恋しく思う「現代美術」こそ、ほんとうの「現代美術」
ではあるまいか?
人間の想像力は、「地誌」との日々のコレスポンダンスから産
声をあげる。
「場所」を離れて、魂が育つことは、ありえない。
分け入っても分け入っても青い山(山頭火)
好感触−。
では、どの辺が良いのか、まず、箇条書きにしてみることに−。
それから、あれこれ考えてみよう。
1)意味とメッセージを帯びた「描くこと」にこだわっている=対社会
性/非現代美術性
2)日本画、洋画、そのほか、教員、学生の枠をこえた共同制作の
意味=個が産む創造と集団のそれとの違い/丸木夫妻を思
わせる
3)美術大学という閉鎖的なアカデミ−の内部から自生した「根源
的な革新・刷新」への意欲
4)「絵図・図絵」の「物語・時空間=展望」というパノラマ的視覚の
伝統に連なる描法=その可能性の更新の追求
5)賛歌・寿ぎ唄=オマージュとしての「絵」の自然な在り方
6)習俗・神話・伝説・歴史・地誌という「共同幻想」と、夢想という
「個人幻想」のコラージュ
7)「東北なるもの」のアイデンティティ−その試掘と再生産の実験
8)東北とはなにか?そこからなにができるか?という問いかけ=
それはたとえば「琉球画は可能か?」「山陰画は可能か?」な
どにもリファー可能だろう
9)6)の結果としてカオスモスとしての「絵画=場」の臨場
10)地方からのあたらしい美の発信/中央の相対化
「東北画は可能か?」は、三瀬夏之介さんからのリメールによれ
ば、活動開始から丸二年が過ぎ、ここいらで一区切りというところ
らしい。
わたしがいままで、その存在を知らなかっただけで、web上にはか
れらの仕事をめぐる相当量の書きこみが、すでにある。
「可能か?」は、評価されている様子だ。
おそらく、三瀬さんがこのブログの、美学校での岡本太郎をめぐる
コンテンツに最も強く反応したことからもわかることだが、「可能
か?」の本丸、その可能性の中心は、
60年代以後現在までの日本のアート・シーンの主流とみなされが
ちな、いわゆる「現代美術」とは別の美の様態、つまり、ことば本来
の意味での「日本現代美術」創出の意志と実験的実践とにあるの
だろう。そんな気がする。
というのも、上に並べた特徴のうちの7項目が、いわゆる「現代美
術」とは異なるベクトルを持っているからだ(青マーク)。
詳しくは、太郎をめぐるテキストを参照していただきたいが、ひどく
簡単にまとめてしまえば、ここ140年ほどのこの国の近・現代美
術の趨勢は、長らく西高東低(西欧米崇拝・東洋軽視)の気圧配
置を「典型」としてきた。
佐渡へ佐渡へとなびく草木のように、わたしたちの眼は、
その背後に流れる「経済・軍事・科学的覇権」を素通りして、
ルネサンス以後の「アルファベット文明圏の美のサクセション」に
のみ魅せられつづけてきた、のだ。
「美」だけを見ようとするひとは、その見返りに、「世界」を失う。
そして、このとき、「世界」とは「時代」であり、同時に「自分」であり、
また「自分」を支える「魂」のことだろう。
というのも、人は、少なくとも、「潜在的な生命場」と、その可視化さ
れた「種性」、また「個体性」、さらに、個体を人間として臨場させる
歴史・社会・政治・経済・言語などの総体としての「故郷」、それら
の四つツジに浮かび上がるホログラフィのような存在だから。
日本近・現代美術の「歪な構造」の問い直しと、そこからの回復
が、東北の発見および東北発の芸術の創設とシンクロするとき、
これまで視えなかった「魂の家」がその真正の姿を顕わすにちが
いない。
そう。「東北画」は、充分に可能なのである。
04・15記
ホ―ム・グラウンド、東北芸術工科大学(図書館2Fスタジオ144)
を会場とする「東北画は可能か?」展−なんと、母校では初−が
04/17−05/02に開催されるという。
三瀬さんからこの間、チラシが届いた。
これはひとつ、行って見ようか?
初日と、翌日のトーク・イヴェントを覗いてみたくなった。
そのご報告は、また後ほど−。
04・18・23・26記
いま、山形から帰ってきた。
けっこう、遠い。しかも、さぶっ。
「東北画は可能か?」−。バッチシ、見て来ました。
プラス、学生諸君の「東北画」も。
いいね!
とってもすてきなことが、起こっている!
東北のまだ、まあたらしい芸術大学に−。
美大アレルギ―が久しぶりに「晴れた」。
ご報告は、あさってあたりから−。
リファー倉庫
島尾敏雄のヤポネシア/岡本太郎・柳宗悦の沖縄(論)/「遠
野物語」/宮澤賢治/萬鐡O郎/寺山修司/土方巽/奥野
猛/赤坂/縄文
このページ、書きかけ。ゆるゆるとメタモしてゆきます。
メタボ反対

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