2009/6/25

誤差の範囲内から抜け出せるか−人材流出の深刻さ  

○現在、23回大会の議案を執筆中。
県内情勢を書くため、統計資料などを探している。

 「県内総生産(名目)は2006年度で2兆3千億円(全国46位)。全国合計518兆8千億円の0.45%。1996年が2兆5千億円で0.48%であったので額率共に低下傾向にある。ちなみに四国計が06年度で13兆7千億円、2.65%となっている。」
 とここまで書いたが、この%を見る限り、中央の官僚からすれば高知、いや四国は誤差の範囲内か?中山間で先祖伝来の土地や墓を守りながら、日々暮らす人たちの姿は数字の陰に隠れてい見えないのかもしれない。
 更に、県内総生産の内訳を見ると深刻さが増してくる。

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 数十年前までは高知県の経済は政府サービスと建設業で支えられていたが、今でこそ公共事業削減で建設業は全国並みに後退したが、政府ケービスは健在である。
 製造業が弱く(この中には食品加工も含まれている)公経済への依存体質がくっきりとしている。

 有効求人倍率の動きが面白い。
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 昨年9月のリーマンショック以降、全国の急激な落ち込みとは対照的に、高知県の落ち込みは緩やか。高知県は「百年に一度」の景気後退がこの間毎年訪れていたことになる。対処療法だけでなく、体質改善が必要な所以である。
 それから抜け出す方策の一つが人材。

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 高卒者の半数以上は県外に就職する。ところが、もっと深刻なのが4年生大卒者。「県内4年制大学の21年3月卒業生1,055人中845人が県外就職」なのだ。
 高知大の約8割は県外出身者なのでその単純な反映なのか、そこまでの資料はないが、深刻な数字には違いない。
 一方、高卒段階で県外の大学に行ってしまう8割の卒業生のその後の「帰郷」の実態が知りたいところだ。
 その実態次第では打つ手が異なってくるだろうから。
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2009/6/22

県労連機関紙の針路−Around 50は何ができるか  

○県労連機関紙の針路の原稿を仕上げる。政治学者の山口二郎氏は、新聞や雑誌に載せた自分の原稿をHPで公開している。それを真似るわけではないが、こんな雑文を書きました。

 アラフォーとアラカンにはさまれ「Around 50」は影が薄い。略語もない。それだけ年代的特長がないのか。
50にして天命を知る」とは孔子の言葉だが、これとは程遠いのが現実。見えてくるのは「先」。先が見え、定年までの残りを数え出す年代。
 50代前後が集まれば、「子どもの“愚痴話し”」が始まる。「○○でアルバイトをしている」「大学に滑って、勉強も仕事もしていない」・・・。
しかし、考えてみれば3人に1人以上が非正規。若者や女性では2人に1人。こんな話しはそう珍しいことではないのが当然。
 相談相手のことではなく、自分の周りにも出て来たに過ぎないということ
 しかし、そこは「組合幹部」。愚痴では終わらず、「子どもの力を信じるしかない」 「子どもが一番つらい」「何とかなるもん」と「前向き思考」で落ち着く。
 学校統廃合問題の討論会に講師として来高した埼玉県鶴ヶ島市の元教育長の松崎頼行さんが、「家族からお父さんは家(ウチ)でできないことを外で言うと言われるが、人間は不完全な存在。完全にはできないことは承知で、道理に基づいて正しいと思うことは勇気を持って言わなければならない」と話されていた。心に滲みる。
 「偽善的」と自分を責める「青臭さ」は枯れた年代。言ったことに自分と現実を近づける努力が、できる年代でもある。
 人間放っておけば、現実を既成事実として「受け入れ」、理念や信念をなし崩しにして行き勝ち。若者の働かされ方、憲法九条のあり方についてもしかり。
 「できもしないことを言うな」という内外の声に負けず、頑固に主張し、行動する「Around 50」でありたい。
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2009/6/20

四国労働委員会総会−派遣問題の扱いが焦点  

○昨日19日に「第97回四国労働委員会協議会」が開催された。
 各県労委があっせんや不当労働行為事件を扱う中で、他労委の経験や意見を聞きたいという課題を提出し、それに相互に見解を述べ今後の取り扱いに活かしていこうというもの。

 今回の議題で焦点が当てられたのは、派遣労働問題。
 経済不況を背景として派遣先企業が業務縮小などを理由に契約を打ち切ってきた場合の派遣元企業による派遣労働者の解雇の事案をどう扱うのか。
 当然、労働契約は派遣労働者と派遣元の派遣会社との間で交わされている。あっせん作業も派遣元企業を対象に進めることになる。しかし、「仕事自体がない」という事情が壁となり、限界も存在する。
 そこで、派遣先企業にもあっせんの場に来てもらえないかという問題意識。

 それに応える判例が、「朝日放送事件」(最高裁第3小。平成7・2・28)
 判決の概要は、(請負契約に基づき労働者の派遣を受けていた企業について)労働者の派遣を受けて自己の業務に従事させ、基本的労働条件について雇用主と部分的に同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定できる地位にある者は労働組合法第7条の使用者に当たるとする、というもの。
 会の中でも取り上げられ、派遣先における具体的な指示命令関係、支配従属関係を明らかにし、当事者意識の喚起に努めることが重要と指摘された。
 また、派遣先企業に労働委員会の役割や仕組みを十分説明し、「出席したら一定の結論を強制される」等の懸念を和らげることも重要との指摘もされた。

 1999年12月1日からの新派遣法(改定労働者派遣法)施行にともない、労働省のモデル就業条件明示書(派遣労働者への交付用)が次の通り変更された。
 「10.労働者派遣契約の解除に当たって講ずる派遣労働者の雇用の安定を図るための措置 
 派遣労働者の責に帰すべき事由によらない労働者派遣契約の解除が行われた場合には、派遣先と連携して他の派遣先をあっせんする等により新たな就業機会の確保を図ることとする。また、労働者派遣契約の解除に伴い派遣労働者を解雇しようとする場合には少なくとも30日前に予告することとし、30日前に予告しないときは労働基準法第20条第1項に基づく解雇予告手当を支払うこと、休業させる場合には労働基準法第26条に基づく休業手当を支払うこと等、雇用主に係る労働基準法等の責任を負うこととする。」
 「派遣先と連携して」と派遣先の「責任」にも触れてはいるが、基本は派遣元。

 四国の会議では議論にならなかったが、派遣元と派遣先との「労働者派遣契約」の中に契約解除の際の予告制度(1月以上の長期の)、違約金の定め(契約途中での)、新たな就業先の確保など派遣労働者の保護につながる定めをするよう行政指導を強めるべきだ。

 更には、「共同責任」の明記含め、法改正も必要となる。
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2009/6/19

青年の悔しさ−最賃デーに思う  

○6月18日は県労連の第3次歳賃デー。グリーンロードでの630分のハンガーストライキには、通行人の30代の女性から飲み物の差し入れがあったり、東京から来たという夫婦連れの観光客には「頑張ってください」と1000円のカンパをいただいた。
 よく目立つのか、ほとんどすべての人が私達が掲げる「最賃せめて1000円以上に」の看板をしげしげと見ていく。

 集会で県教組の西山委員長が、埼玉県の時間講師の例を紹介。「時給1200円と時給は高いが、1日5時間しか勤務時間が無く、夏、冬など長期の休みがあるため、年収は80万円にしかならない。授業の準備があるためアルバイトもままならない。やむを得ず、生活保護の申請をしたら受理された。生活保護を受けながら先生をするという実態は、どう考えても異常だ」と臨時教員の処遇改善を訴えた。
 労働局との話し合いでは、「私達の運動の目的は、1030万人とも言われる年収200万円以下のワーキングプアの解消や将来に希望が持てない非正規の働かされ方の解決。最賃の大幅引き上げは重要だが、それだけでは問題は解決しない。私達が要求する最賃1000円が実現したとしても、1日3、4時間の細切れ労働では、まともな生活は出来ない。人間は少なくとも月単位で生活している。その上で将来の見通しを立てていく。労働者派遣法の抜本的な改正、ヨーロッパのように労働時間の選択権など労働時間法制の見直しや様々な処遇を含めた均等待遇の実現が必要」「最賃の重要性とともに、その限界も意識した総合的な検討を縦割りを排して行ってもらいたい」と投げかけた。
 監督課長は「言われるとおり幅広い視点が必要」と応じた。

 県経営者協会との懇談では、「日経連の「新時代の日本的経営」(1995年)がだされ、2001年からの小泉改革、新自由主義路線で非正規化がここまで行き着き、格差と貧困の拡大、若者から将来希望を奪うという大きな社会問題を引き起こしている」「それにどう対応するのか日本経団連がこれからの雇用のあり方、社会の枠組みについて大所高所からの提言をすべき時ではないか」と投げかけた。
 水田専務も「社会の不安定化」に対する危機感を表明し、「大枠で賛同できる」と述べた。

 一昨日、これまで何度も「派遣の身分の不安定さ」を訴えて労働相談センターに電話をしてきていた労働者が、郡部からわざわざ高速道路を使って相談に來所した。
 危惧していた「契約の打ち切り」が数日前に現実になったのだ。話を聞き胸の詰まる思いだったが、昨日ハンストのため事務所を留守していた間に電話があり、「もう派遣でだけは働かない、と伝えてほしい」と伝言があった。
 この青年が派遣切りに合うのは今回が初めてではない。この青年の悔しさを制度の改善で晴らしてあげたい。
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2009/6/12

県教育進行基本計画/中間まとめ考−塩谷泰一元坂出市民病院長の本を参考に  

○県の「教育振興基本計画」中間まとめを読みながら、つらつらと考えた。
 県教組から「土佐の教育改革」の資料をもらい、セアート勧告関係の資料も読み、ドラッカーの本なども手にしては見たがどうも今一、問題の本質がピンとこない。
 そんな時ふと元坂出市民病院の塩谷泰一氏(現在徳島県立病院病事業管理者)のことを思い出した。私が労働運動をやっていく上で大きな影響を受けた人だ。
 久しぶりに氏の「病院『変わらなきゃ』マニュアル」、「もっと病院変わらなきゃマニュアル」の2冊の本を手にした。

<病院低迷の元凶>
@病院の基本理念がない
A達成可能な組織目標がない
B品質管理のシステムがない
C組織としての一体感がない
D責任転嫁で自己責任がない

<「変わらなきゃ」の3つの原則>
@意識改革ではなく、意識の覚醒
A個の最適化ではなく、全体の最適化
B経営の安定なくして、良質な医療なし
 「意識改革はあくまで『意識のある人』に対してなされるのが大前提」。かなり強烈だ!
 意識レベルの4段階。「知っている」「分かっている」「できる」「当たり前にできる」

<氏のめざすリーダー像とは?> 
 英雄型ではなく協働型のリーダー。「物静かなリーダー」。「タテの階層社会におけるトップではなく、職員を鼓舞しながら共に働き、彼らの内在する感情やエネルギーを引き出しながら『相互に作用し合う』というネットワーク社会におけるトップ」である。
 長続きする組織は「一人の“カリスマリーダー”をいただく組織ではなく、組織全体にリーダーシップを醸成している組織」であり、「組織人としての職員に“自立”と“自律”そして“成熟”を求める」組織である。
  リーダーの任務は、「目標の設定と目標達成のためのシステム作り」にある。氏はそれを「塔を建てて、道を創る」と表現する。
 塔は「美しく、大きく、はっきり」と見え、「そこに行きたい」と誰もが思うものでなければならない
 中間管理職の重要性を指摘すると同時に、その役割を次のように定義する。
 「管理職にとって大切なことは、『病院が何のために存在するのか』という組織の存在意義と使命を十分に理解した上で.それを一般職員と共有し、『なすべきこと』と『なすべきではないこと』を明確に区別することである。」
 「自分の立場に置きかえて『病院理念が意味するところ』を理解していない人。管理職としての自分自身に『何が.なぜ、期待されているか』を知らない人。病院が『今現在どこにいて、これからどこに行こうとするのか』を認識していない人」を意識不明の重態管理職と定義する。
 管理の目的は「組織目標の達成」。「組織目標なくして、管理なし」。組織目標がない部門の管理職がする管理は、歪んだものになる危険性がある。もう一つの目的は、「生きがいの実感」。職員に生きがいを実感させることである、と。

「中間まとめ」を読んで気になった点

1.現状認識、課題、理念の共有化をどう図っていくのかという点。 
 「中間まとめ」でそれらの明確化を図ろうとしていることは伝わってくる。
 しかし、問題は共有化をどう進めるのかの方法論が示されていないこと。1病院と異なり、巨大な組織である。特段の仕組みづくりが必要だ。
 「計画」の作成過程と理念の共有化の過程とは重なるものでなければならないだろう。パブリックコメントの募集だけではなく、計画の作成過程に利害関係者をどう参加させるのか。いまからでも遅くないからやるべきだろう。「土佐の教育改革」の引き継ぐべき成果の一つに、「参加と共同」という方法論も当然(というより前提として)入れるべきだ。

2.教育委員会の責任と役割に関する記述。
 気になるのは、「子どもたちの学力や体力の全体的な状況の第一義的な責任は、学校でも教職員でもなく教育委員会です。」という箇所。
 責任の所在を明らかにし、自らに課された責任の重さの再確認を内外に示したいのだろうが、「このため、教育委員会は、教育水準を保障する責任者として、必要な指導・助言を学校や教職員に行わなければなりません。」と続くと、何か違うと言わざるを得ない。
 教員は「児童生徒の教育者」であり、教育委員会が教師に「指導・助言」するという関係。
 セアート勧告の「自由、創意及び責任」が尊重されるべき専門職としての教師像は、そこにはない。
 こういう教師像、教育委員会像では、「参加と共同」は出てこないだろう。
 教育委員会のするべきことは、理念と目標の設定、そして目標達成のためのシステム作りだ。しかも、それを児童生徒、保護者、地域、教員、労働組合含めた利害関係者の参加の下にいかに進めるかの工夫をすること。

3.管理職に関する記述。
 「意欲と活力に満ちた組織的な学校づくり」を進めるために、「教職員の意欲ややりがいを高め、学校全体としての意識や取組を共有化できるマネジメント力に富んだ管理職を育成し、PDCAサイクルやOJTが日常的に実践される学校づくりを進めます。」という記述。
 塩谷氏の言う「組織目標なくして管理なし」は、「理念なくして管理なし」ということが前提にある。
 組織に理念があるためには、トップである教育長の理念に対する姿勢が問われる。そして、理念の共有化の方法論が、次に問われる。
更に、トップと理念を共有する管理職のありようが問われる。
 「参加と共同」の仕組みがなければ、「歪んだ管理」になってしまうだろう。
 
 「土佐の教育改革」の総括として、掲げた数値目標や具体的な手法などを県教育委員会、市町村教育委員会、学校現場とで十分共有できていなかった、と指摘している。
 その原因として、教育委員会としての「発信」が継続的でなかった点を挙げている。
 更に、「目標や計画ができても、それを実現するための県教育委員会の指導・助言の徹底や進行管理が十分にできておらず、そのことが学校現場においてもPDCAサイクルの実践や成果を積み上げていく組織的・継続的な取組などに十分に結びつきませんでした。」と総括している。
 対策として、指導・助言、管理の強化、その手段としてのPDCAサイクルの徹底となる。
 理念の共有が十分できていないという現状認識から、まったく方向性の異なる2つの方法が導き出されている。
 この点で「参加と共同」の徹底という方向性を明確に提示し、「参加」を勝ち取るための過程として積極的な提言活動を行っていく必要があるだろう。

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2009/6/11

儲けないこと儲けることの意味−島田伸介氏の深い意味  

○以前ブログで書いた「金儲けだけの人生なんて、実にくだらん!」「もうけない金融機関 近畿労金」の写真を紹介する。インパクトあるよね!?

 ついでに、『島田伸介の話し方はなぜ9割の人を動かすのか』を関西つながり、“金”つながりで紹介する。

 島田氏といえば、トークの達人であると同時に“不動産投資”のイメージがあるが、洋服店とか飲食店とか幅広く副業(実業)をやっているらしい。
 しかし、自身の名前は冠さない。「伸介が死んだときに店も死んだらアカンから」。知名度を利用した宣伝は諸刃の剣。「悪い評判が立てば即廃業に」つながる。
 面白いのはしっかりした経営理念。
 「本業で食える間は副業で儲けなくてもいい」。それでは何故、ビジネスに手を染めるのか。それは好奇心。「面白そうだと思ったら、何でも自分でやりたがる」。「遊びでも真剣に取り組まなければ、本当の面白さや醍醐味が味わえない」「成功しなければ面白くもなく、面白くなければ『遊び』にならない」。
 「儲かってこそ、自分のアイデアの正しさが証明される」「(ビジネスとは)自ら考え、自ら動き、自ら結果を出して、自ら正しさを証明すること」。
 「単なる思いつきでしかないものを、実現可能なアイデアに成長させるには、しっかりした情報が必要だ」「自分で入手した情報は、少し加工すれば、いくらでも応用が利く」「異なるフィールドで得た知識や経験を、別のフィールドで活用する」「アイデアを別のアイデアと結び付ける」。
店の状況はその日のうちに報告させ、分析する。「お金はいらんねん、ノウハウが欲しいんや」。
 更に面白いのはここから。
 「店の良し悪しを決めるのはお客さん」「顧客満足度を高めるためには、従業員満足度を上げることや」「満足して働けるということは、楽しく働けるということだ」。
 「働け、どんどん働け!」と煽るタイプの経営は「間違っている」と断言する。
 強制されると人間は、意識せずともモチベーションを低下させ、最悪の場合にはまったく失ってしまう。
 それを「物理的労働力」と「精神的労働力」と表現する。前者をたとえ100%引き出したとしても、後者を捨てることになったら最悪だと。
 「商売が成功すれば、従業員が幸せになる。従業員が幸せになれば、商売はさらに上手くいく。商売が更に上手くいけば、従業員はさらに幸せになる・・・・。」
 「お前ら、いつまでもこんな鉄板焼き屋で働いていてもしゃないぞ」と、将来の独立まですすめる。

 島田氏のトークを「天才」と賞賛するのは、“(努力を自分に課すことからの)逃げ”である。若いころから、ノートを付け、先輩の芸を盗み、アイデアを育てていた。
 
 経営者としての氏にも学ぶべき点が多い。従業員満足度については、ありふれた話だろうが、「お前ら、いつまでもこんな鉄板焼き屋で働いていてもしゃないぞ」の言葉には多様な意味がある。特に、正規と非正規の二層化、分断化をどう克服し、「安定」プラス「やりがい」を仕事に取り戻すのかのヒントを感じる

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2009/6/7

教育振興基本計画−マネジメントの勘違い  

○現在、県教委は「高知県教育振興基本計画」(中間取りまとめ)にたいするパブリックコメントを求めている。
 これに対して労働組合側の論議も始まっている。
 県教組書記長のブログ高知高教組日誌(ブログ)を見る限り、論点は中間まとめの次の2点に集まっている。

@「教育委員会の責任と役割:子どもたちの学力や体力の全体的な状況の第一義的な責任は、学校でも教職員でもなく教育委員会です。このため、教育委員会は、教育水準を保障する責任者として、必要な指導・助言を学校や教職員に行わなければなりません。」
A「意欲と活力に満ちた組織的な学校づくりを進めよう:教職員の意欲ややりがいを高め、学校全体としての意識や取り組みを共有化できるマネジメント力に富んだ管理職を育成し、PDCAサイクルやOJTが日常的に実践される学校つくりを進めます。」

 ドラッカーを導きの糸にして考える。
 「組織の焦点を使命に合わせ、戦略を定め、実行し、目標とすべき成果を明らかにする人間が必要である。このマネジメントには、大きな力が付与される。しかし、知識組織におけるマネジメントの仕事は、指揮命令ではない。方向付けである。」(「ポスト資本主義社会」)
 「明確かつ焦点のはっきりした共通の使命だけが、組織を一体とし、成果をあげさせる。焦点の定まった明確な使命がなければ、組織はただちに組織として信頼性を失う。」(「ポスト資本主義社会」)
 
 「高知県教育振興基本計画」(中間取りまとめ)は、知事部局の「産振計画」をなぞって「現状分析」から始め、危機感と使命、目標の共有を目指している(かのようである)。
 だが、何か違う。形から入っている感がする。
 知事は、「なぜ、産振計画か」の説明に精力を使った。「屋上屋」「計画を作っても状況は変わらない(変わらなかった)」等々の論を論破する。そのために、高知県の置かれた現状、将来予測を明らかにし危機感の共有を訴えた。その上でやるべきことを県庁組織、企業、地域と一緒に作り上げて行く。
 教育長のその点での努力は十分か
 教育関係の両労組が、議論の始めにそのことを持ってきていない点が象徴的。両組織の論議のあり方も問題には出来ようが、危機感、理念の共有の点で成功していないことは確か。
 次の問題点は、マネジメントに関する県教委の考え違い。ドラッカーと「中間まとめを」読み比べればそのことは明らか。
 理念の共有の努力なしに「命令」「強制」しようとしている(少なくとも両組織にはそう映っている)。
 知事と教育長との深さの違い。更に教育長の不幸は、本庁組織と学校組織とに違いがあること(両組織とも知識労働者の組織である点では変わりないが、後者は特殊性を持っている)。
 学校組織がその使命を最大限発揮できるのは、命令によってではなく共感によってである。なぜなら、教師は知識労働者の典型であり、また、独立した権限と責任を持たされてこそ力が発揮できるからである。その教師の力を最大限引き出し、一つの教育目標に結集させるためには、ドラッカーのいうマネジメント力の発揮が求められる。
 理念と目的の共有(「ベクトル合わせ」)を前提にその実現の方法論については出来るだけ幅広い裁量権を教師(と学校)に持たせるべきだろう。
 しかし、それは単なる思い付きや視野の狭いものであってはならない。そして何より、成果をもたらすものでなければならない(ドラッカーによれば、成果は組織の使命を実現する上で必要であると同時に、個人の自己実現にとっても欠かせないものである)。
 それを保障する仕組みがPDCAサイクルである。各自の裁量権に任された方法論をより普遍的なより成果の上がるものに導いてくれる手法である。
 理念、目標の共有化の努力のあとには、このPDCAサイクルの運用方法についての理解を深める支援が必要だろう。
 
 マネジメントの勘違いが、「県教委の責任感」を空回りさせ、管理(の強化)へと向かわせる(今のところ危険性)。
 そして、PDCAサイクルが単なる管理の手段と化してしまう危険性がある。

蛇足ではあるが、労働組合は当局(使用者)との理念の共有を恐れてはならない。そのことで、立場の違いが氷解する(取り込まれる)と恐れるのであれば、その組織の存立の使命自体が問い直されなければならない。
 むしろ、現状分析、課題、目指すべき方向等の「ベクトル合わせ」については、労働組合の側から積極的に提起すべきだろう。
 これまたドラッカー流に言えば、必要なのはマーケティングである。生徒や父母や地域や社会の現状が、教師や学校、教育に何を課し、何を求めているのかをまず立場の違いを超えて十二分に話し合うべきだろう。
 県教委の姿勢にそれが欠ける(傾向にある)のであれば、労働組合こそがそれを真正面から提起すべきだ。
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2009/6/7

あいさつ2題−地域の砦から  

○6日は県教組の女性部定期大会で挨拶。7日は民商県連の総会で挨拶。
 解散時期の読めないKYの首相が、公明党に寄り添い(KY)、一日でも長く首相の座に留まりたいと解散時期を先延ばしにしている。しかし、総選挙は避けようがない。
 来る総選挙の争点は、2001年の小泉内閣に始まる構造改革路線、新自由主義路線に止めを刺すこと。
 格差が拡大し、今やそれが固定化しようとしている。教育機会の格差の固定化。意欲の格差の固定化。固定化を許してはならない。
 その最たるものが、国会議員の世襲。自民党の33%。民主の10%。地盤、看板、鞄の「三バン」を家督として譲り渡すという次元を超えて、民主主義の劣化だ。
 08年の自殺者は3万2千人。11年連続で3万人を超えた。そのうち6割は無職者。失業者の自殺は2割も伸びた。4割弱が有職者。そのうち4分の1以上が自営業者。
 経済的要因による自殺であり、社会災害、政治災害
 総選挙で回答をすると同時に、運動でわれわれのどういう答えを突きつけるのかが問われる。
 リーマンショック時(08年7月)の有効求人倍率は全国が0.88。高知が0.49倍。09年4月のそれは全国が0.46倍、高知が0.40倍。全国は急降下。高知は万年不況状態。従って、処方箋は緊急対策と同時に体質改善
 10月の国民大運動の県交渉だけでは足りない。それまでの各団体による各課や部との交渉の積み上げ。
 それに地域。県教組の郡教組会館を地域運動の砦にすることをめざす。そこで労組は勿論諸団体が横につながる。市町村との交渉を積み上げ、10月の県交渉につなげる。
 どのような地域、自治体像を描くのかは、その過程でじょじょに姿を見せるはず。
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2009/6/5

マツダに是正指導−派遣を規制したくない八代氏の理屈  

○6月5日付けの新聞各紙は、マツダの派遣法違反に対する労働局の是正指導の記事を掲載している。例えば、朝日新聞。
 「自動車メーカーのマツダが、派遣契約と直接雇用を繰り返して労働者派遣法に定められた3年の制限期間を実質的に超えて派遣労働者を受け入れたとして、広島、山口両労働局は3日付でマツダの本社工場(広島市南区など)と防府工場(山口県防府市)、派遣会社に、こうした雇用をしないよう是正指導した。」
 3ヶ月のいわゆるクーリングオフの期間を悪用して、3年間の制限期間を超えて派遣形態で働かせていたもの。
 「Voice」6月号で労働者派遣法の見直し(規制強化)をしたくない八代尚宏氏(国際基督教大学教授)は、あれやこれやと見直しが「派遣労働者のためにもならない」と主張しようとしている。
 例えば、「3年を超えて雇用したければ直接雇用で、というのは行政の論理に過ぎず、現状の賃金や労働条件に満足している派遣労働者にとっては大きな迷惑となる」と理解しがたい論を展開している。八代氏は派遣制限期間の対象を「派遣先の事業所その他派遣就業の場所ごとの同一の業務」ではなく、個々の派遣労働者と解釈している節があり、この制限があるために3年を過ぎた派遣労働者は働きたくても「解雇」され、別の派遣労働者に置き換えられると主張しているようである。
 雇用問題のスペシャリストかと疑りたくなるが、マツダは法律を「正しく」理解していたが故に、一旦全員を「3ヶ月と1日」直接雇用して(同一業務で派遣を受け入れていない状態を作っておいて)、今度は逆に派遣会社に労働者を戻し、再度派遣労働者として受け入れ働かせていたのである。
 また、同氏は「使用者が優れた派遣労働者を直接雇用したければ、規制がなくとも自発的にそうするはず」と同義反復している。「したければするよ」!問題は、したくない経営者が多いのをどうするかだ。
 派遣で満足している人がいることは否定しない。しかし、大多数の派遣労働者は、現状に満足していないから法改正が必要になっているのではないか。
 ただし、八代氏が言う「派遣は不安定労働者の8%に過ぎない」というのはその通りで、それを解決するためにはパートを含む「均等待遇」の実現が必要だ。
 また、氏が主張している派遣社員に対する派遣元と派遣先の「共同雇用者責任」の導入も必要。セーフティーネットの充実も必要。
 しかし、企業(寄り)の論理に立っている限り、つぎはぎの主張に終わり、問題解決に近づかないだろう。「儲けの源泉は労働の不安定化」によっているのだから、企業寄りの思考からは「不安定の是正」は出てこない。「不安定」を「選択」として容認し、せいぜい企業外のセーフティーネットの整備を主張する程度である。
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2009/6/1

未来への投資−一灯を頼め  

○30日の土曜日に青年部の4年ぶりの大会が開かれた。
 私は挨拶でいくつかのエールを送った。
 その1つでドラッカーの次の一文を紹介した。
 「私が22歳のとき、宗教の先生が生徒一人ひとりに『何によって人に憶えられたいかね』と聞いた。誰も答えられなかった。
 先生は笑いながらこう言った。『いま答えられるとは思わない。でも、50歳になって答えられないと問題だよ。人生を無駄に過ごしたことになるからね』。」
 「10年後、20年後のために自分に投資をしてほしい」「県労連にとっては、青年部は県労連の未来」「青年部への投資は、未来への投資」というようなことを話した。
 それを「重く」受け止めた人(青年)もいたかも知れない。また、「重たい」と受け止めた人もいたかもしれない。
 そうこうするうちに真言宗の大僧正の池口恵観氏の「いい言葉は3日で人生を変える」(三笠書房)を手にした。
 その中で江戸時代の儒学者の佐藤一斎の「一燈を提げて闇夜を行く。闇夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め」の言葉を紹介している。
 更に「少にして学べば則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば則ち老いて衰えず。老にして学べば則ち死して朽ちず」の文を挙げている。
 一燈の有難さ、学ぶことの大切さが心に刻まれる。

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2009/5/30

妥協と不可知論−ドラッカーの深さ  

○県労連の書記長になってあれこれ調整する機会が増えた。
 民間から公務、製造からサービス業まで幅広い。立場も違い、目線も異なる。
 放っておけば「内部対立」になりかねないことも・・・。
「決定においては、何が正しいかを考えなければならない。やがては妥脇が必要になるからこそ、誰が正しいか、何が受け入れられやすいかという観点からスタートしてはならない。」ドラッカーの言葉である。
 妥協は「不可知論」からは導き出されない。そこから生まれるのは混迷だけである。
 何が正しいいかを見極める洞察が必要だ。それがあってはじめて「誰が(発言した)」という個別性を乗り越えられる。
 ドラッカーの次の言葉も味わい深い。
 「最初から事実を探すことは好ましくない。すでに決めている結論を裏づける事実を探すだけになる。見つけたい事実を探せない者はいない。」
 平たく言えば、「理屈と絆創膏はどこにでもくっつく」。自分が正しいと思うことを裏付ける事実を探せない者はいない。
 そうだとすれば、「何が正しいか」を何によって考えるのか。
 手痛いしっぺ返しを伴う経験の積み重ね
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2009/5/28

マスコミの哀れ−外交とは。二題  

○「世界」のメディア批評が好きだ。神保太郎氏が担当。
 北朝鮮のロケット発射にまつわる「狂乱報道」をズバッと斬る(6月号)。
 北朝鮮が3月12日に発射日程を通告して以降、脅威をあおり、「臨戦態勢」「有事」報道のオンパレード
 「重く不安定で腐食性の強い液体燃料を使う」ノドンが、どうして4千発以上の核弾頭を持つアメリカの脅威たりうるのか。そして、その核の傘に「守られている」日本にとっても。
 MDなど役にも立たない兵器の増強、自衛隊海外派兵、改憲のための「作られた脅威」。そして、それに乗せられるマスコミ。
 神保氏は朝日新聞が昨年刊行した『戦争と新聞』を、戦争に加担した自らの罪に鋭くメスを入れたものとして高く評価している。しかし、不満も。それは、何か。
 既に犯罪性が明白な、過去の戦争の悪の部分に触れるに止まっている点
 「戦争はまず、国民の善良な意識や熱意のなかに胚胎、やがて日常のありふれた関心として育っていくものだ」「メディアもそのような国民感情と一体化しようとする傾向を免れがたく持つ」。この新聞と国民の相互劣化の危うさを『戦争と新聞』が、鋭く指摘できていたら、ソマリアへの海自派遣も北朝鮮の「ミサイル」迎撃も、新しい戦争体制作りに国民を馴染ませるためのキャンペーンだとその危うさに気づけたはず、と指摘する。
 もう一つ鋭い指摘が、「万が一」報道についてのコメント。
 「各テレビ局は『万が一』と枕にふれば、無責任な発言もお咎めなしと心得たようだ」。
 ありもしない脅威を書きたて、垂れ流し報道する責任が、「万が一」という枕詞で免罪されるかのごときであった、と。そして、この無責任な報道が、国民の間にも伝播する。発信者と受信者の相互乗り入れと「相互劣化」(発信者の考えで受信者は考え。それをまた報道することによって発信者の偏った考え方が強化される)。

北のロケット発射のねらいは、アメリカの関心を引くことと国内の引き締めとのもっぱらの見方である。しかし、それだけか。
 北朝鮮は6カ国協議から離脱し、5月25日の2度目の核実験に至る。日本の「単純な」過剰反応(日本政府もこの事態を利用して戦争体制作りを進めるという「複雑さ」は持ち合わせていたには違いないが、事態の真の解決という点では幼稚すぎる)を見越して、核実験までのシナリオを描いていたのではないか。
 その点で、落合信彦氏の「『聖地』荒れて」で紹介された中東和平を見据えたエジプト・サダト大統領の深謀遠慮の外交手腕が思い起こされる(キム・ジョンイルを評価するつもりでは勿論なく、外交の持つべき本来のしたたかさを日本外交が欠いている点を強調したかった)。
 サダトは、第4次中東戦争をイスラエルに仕掛ける。しかし、劣勢に立たされるや和平に転じる。これを「勝ち目がなくなったから」と単純に取ってはならないと指摘する。
 「サダトは最初から負けを承知で戦争を仕掛けた」。そのことによって当時は中東に手を出さない姿勢であったアメリカを引きずり出すことと、反イスラエル感情の中での「和平やむなし」の世論作りにねらいがあった、と。
 北には道理はなくとも「したたかさ」はある。日本外交には、道理もしたたかさも感じられない
 核廃絶の熱意と道理、そして北朝鮮を対話の場に引きずり出し手足を縛るしたたかさがほしい。このままでは、テロ組織への核の拡散という真の脅威が生まれかねない。
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2009/5/27

気になった記事−騙されることの怖さ  

○最近気になった記事。
 1つは「生産性新聞」(5月15日付け)。同本部の新入社員意識調査
 「今の会社に一生勤めたい」55・2%と過去最高(昨年47・1%)。「転職はしないにこしたことはない」34・6%とこれまた過去最高。不況の中での安定志向なのか、派遣切りの悲惨さへの自己防衛反応なのか。
 怖いなと思ったのが次の項目。「良心に反する手段でも指示通りの仕事をする」40・6%と過去最高
 一方では、「チームを組んで成果を分かち合える仕事」と「自分の個人的な努力が直接成果に結びつく仕事」の二者択一では、前者が83・5%という数字も。
 社風なりトップの理念が大切ということか。利益第一主義では、「手段を選ばない」仕事の仕方に追いやられてしまう。成果を分かち合いながら社会に貢献できる仕事ぶりを一方で望んでいたとしても・・・。

 もう1つは、「救援新聞」(5月25日付け)。数字で見る人権A−非行
 少年犯罪の凶悪化がマスコミでも喧伝されている。知らず知らず、そうと思い込んでいた。
 法務省「犯罪白書」の数字を紹介している。少年刑法犯(10歳以上20歳未満)のうち殺人については40年前の5分の1の件数。強盗についても低下傾向を示している。
「ではなぜ、少年の犯罪が注目を集めているのでしょうか」と問いかけ、犯罪学、統計学等を専門とする浜井教授の調査結果を紹介している(浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書)。
「06年に全国を対象に、2年前と比べ自分が住んでいる地域で犯罪が増えていると思うか、日本全体で犯罪が増えていると思うかをたずねたところ、居住地域で増えていると答えた人は27・0%(とても増えた3・8%、やや増えた23・2%)にもかかわらず、日本全体で増えていると答えた人は90・6%(とても増えた49・8%、やや増えた40・8%)にのぼったというがあります。これは回答者の多くが、自分の周りでは治安は悪化していないが、日本全体では治安が悪化していると感じていることを表すものです。」
浜井教授は、その理由を探るため、もう一つ興味深い調査を行っている。「主に朝日新聞のデータベースで『凶悪』および『殺人』を検索し、85年と00年の記事件数と実際の殺人事件の数を調べたところ、事件数は減っているにもかかわらず、記事数は5倍になっています。こういった実態と報道のズレが住民の『治安が悪化している』という認識に影響しているのではないか」と指摘している。
 マスコミは怖いなと思う。それと同時に、人間は如何に騙されやすいかを実感する。
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2009/5/24

初の地域運動交流集会−運動論の発展を目指して  

○5月23日に県労連としてはじめての「地域運動交流集会」を開催した。
 08年春闘で県政課題に真正面から向き合うことを掲げ、若者雇用と地域再生に取り組んできた。08年秋には地域組織の再構築を目指し、地域組織のオルグを行った。その際、県教組の郡教組会館を地域運動の砦にしようと呼びかけた。
 09春闘では、全県キャラバンを行った。
 そして、今回の交流集会。目的は、運動の交流だけではなく、運動論の理論化と発展方向を探ること
 基調提案は、県労連HPに掲載の文書を参照願いたい。
ここでは、集会のまとめで発言した中身を中心に紹介する。

 まず第1点、運動をどういう視点で進めるか
 私たちは自分の組織の窓から地域を見ている。組織としての見方や要求の枠組みで対象を切り分けて見ている。その限られた視野を少しだけ広げる努力をしてみる。
 このような会議の際の発表も「自分たちはこう考える。こういうことをしてきた。こういう成果が上がった」というだけではなく、それを地域との関連で語るよう努力する。
 自分たちの職場の問題が地域にとってどういう意味を持っているか。地域の人たちはどう捕らえているか。運動がどのような影響を地域にもたらしたのか。地域の人たちとのつながりがどう変わり、どのような関係を築いてきたのか。課題は何か。これからどのように取り組んでいくのか等々。
 「地域」は認識の一致を作り出していくための共通基盤である。地域を媒介することによって、それぞれの団体、運動が横につながっていく。

 第2に、運動を担う組織のあり方について
 その際、各運動団体の関係をどう捉えるのか。逆説的に映るかもしれないが、運動団体は「単一課題」であるからまとまりが強く、かつ、広がりが出る。一致する要求が強ければ、政治的立場の違いも乗り越えられる。課題を継ぎ足していけば、幅が広がって行きそうで実際はその逆。課題が加われば加わるほど、当初一致していた人たちの中から差異を唱える人たちが抜け落ちていく。
 従って、単一課題の組織(守る会、実行委員会。あるいは県組織の地域組織等々)としての運営はそれ自体大切にしながら、それぞれの課題(要求)を持った組織が地域で緩やかなつながりを持っていくことが重要(連絡会、協議会、意見交換の場等々)。
 それを支える(個別運動体は勿論、運動体のつながりを支える)のが、地域労連
 労働組合だけでは広がりがないが、それが核になり、黒子となり支えることがなければ、安定的な運営はできない
また、地域や住民要求は前提であるにしても、運動の自然発生を待っているのではなく、労働組合が問題意識を先取りして地域目線で働きかけることが重要。
 その意味で、この秋には全地域労連で総会を開いてほしい。できれば、秋に地域要求をまとめ自治体交渉を開催してほしい。

 第3に、目指すべき地域像とは何か
 病院、学校、郵便局、役場等々の公共的機能、公共セクターが存在しなければ、地域の維持はできない
 総務省などの中核自治体構想の考え方もこの考え方を持っている。しかし、道州制をにらんだかなり広域的なもの。
 私たちはそうではない。内橋克人氏の言う「生きる・働く・暮らす」の機能が結びついた地域像、これはかなり狭い範囲。自治体単位であったり、集落であったり。
 しかし、これは安芸の保育運動での取り組みでも現れているように、運動の中で「こんな保育所(保育行政)を作りたい」から「こんな地域を作りたい」へと発展していくものだと思われる。
 地域単位で運動を通してあるべき地域像、自治体像を模索していくと同時に、高知県の場合尾崎知事が産業振興計画の取り組みを進めている。これとどう向き合うかを意識した運動展開が必要。
 高知県経済、高知の中山間の現状を考えると、当面の対処療法(景気対策)と同時に体質改善が必要である。そのためには政策が必要であり、研究機関、研究者との連携が欠かせない。
 
 第4に、自治体を変える、政治を変える取り組みである
 これが最初からの課題とはならないにしても、地域運動を進める中で政治の問題、行政の問題に突き当たる。その運動の発展と合意の成熟の中で、政治を変える課題からも目を背けないことが大切
 過去に運動を通して議員を生み出していった例もある。
 四万十市民病院の再建を公約の中心にすえた市長の誕生も地域運動のこれからの発展の可能性として注目すべき。
 
 第5に、県労連としての運動の視点
 合意協力型、提案型の運動を進めていく。地域と職場が基点。その両方でこの視点を貫く。反対型、対立型から脱却する。しかし、それは労働3権の放棄ではないし、それを曖昧にすることでもない。その行使の方法論の問題。

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2009/5/7

呉越同舟?−深いのか危険なのか  

○5月3日、青年会議所主催の「憲法タウンミーティング」が高知市春野町のピアステージで開催され、2百名の聴衆を前に自民、公明、民主、共産、社民の各党代表が意見を戦わせた。
 目だったのは、共産党の春名なおあき氏の一貫した明確な主張と民主党の平野貞夫氏の理念的な奥行きのある主張。平野氏が仕掛ける春名氏への論争?エールも面白かった。平野氏は盛んに「基本的な考え方は、春名先生と同じ」と繰り返していた。
 平野氏は「共産党入党寸前」まで行った人間。それをとめたのが吉田茂とか(「自民党はなぜ潰れないのか」幻冬舎新書)。
 「地方自治」に関して、春名氏が「現憲法には第8章でわずか4条であるが、地方自治の本旨が網羅されている。問題はそれを生かすかどうか」と主張すれば、平野氏は「地方自治ということ自体そもそもおかしい。地方という言葉は差別用語。上下関係を前提としている。使うとすれば、住民主権、住民自治」と応じる。
 9条問題では春名氏が「1項は国連憲章の精神。日本国憲法が出色なのは2項で戦力不保持を謳っている点」と主張すれば、平野氏は「自衛権にはそもそも個別も集団もない、自衛権のみ」「国連の決議の範囲内での活動に限定する」と主張。
 平野氏の主張は「国連」を隠れ蓑に自衛隊の海外派兵を正当化するものと受け取られかねないが、その主張の根幹には1945年当時の国連憲章制定の経過を踏まえている。
 基本は国連による「集団的安全保障」。国連による必要な措置をとるまでの間、自衛権が認められた。これにアメリカが突如、「集団的自衛権」の考え方を持ち込んだ。アメリカにとってはアメリカが攻撃を受けた場合の自衛権では不十分(この可能性はほとんどない)。アメリカにとって必要なのは、同盟国が攻撃された時に、国連に制約されず武力行使を行う権利。アメリカの権益を守るために、自由に軍事介入をする権利である。自衛権が、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」との分かれたのはここに起源がある。
 平野氏の主張はこれを踏まえ、国連の集団的安全保障の枠組みを再構築することを前提にしている。
 平野氏の論議は、「深い」だけに一見分かりにくく誤解を受ける部分がある。それを「誤解だ」と言わんがために「基本的な考え方は、春名先生と同じ」としきりに発言したのではないか。
 平野氏の思考方法は、極めて「弁証法」的だと私には思われる。前掲書には政権交代に関して「上部構造の政治家だけが妙にハッスルして政権交代せにゃいかん」と言ってもダメ。政治家、国会議員、政党側の認識、意識と有権者の投票する意識とのズレがあってはならないと発言している。
 平野氏の主張を「深い」と取るのか「危険」と取るのか、受け取る側の思考方法にもよるのだろうが・・・。
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