旅の疲れもあって、さすがに何にもする気が起きない。
ただ、龍の眼球を沈めた湧き水や、所々にカスケードやよどみを配した流れなんかを夢想している。
もう一度、風景式庭園を見ておこうか。
ふと思い立って、御苑でひなたぼっこと洒落こんだのは20日のことだった。

台湾の暴力的な日差しと灼熱にすっかり弱ってしまった体には、ひんやりとした秋風がなんと心地よかったことか。
あちらで買ってきた学名と中国語の並んでいる図鑑を眺めながら、ランタナのワイルドタイプは、実は300年も前にこの国に持ち込まれたものだとか、野生のアゲラタムも実のところ帰化植物で、台湾では夏の暑さに耐えられず1年草なのだとか、タカサゴユリよりもテッポウユリの方が低地向きだとか、そんなことばかり拾い読みしている。この分だと、あの湖の畔で見たポインセチアの原種もずいぶん昔に持ち込まれたものに違いない。
庭の構成原理の中心にフラクタルを据えるか、もっとシンプルに黄金分割で攻めた方がわかりが良いかとか、まぁこの複合で行くことになるんだろうなぁ。
結局はどちらも同じものの別の側面なんだし。
ただ、全体の形をコントロールするべきものがまだ見えてこない。
プレアデスか北斗七星を据えようかな。
スケールと植物の組み合わせををいろいろに変えて、北斗七星の配置が繰り返され、全体として自己相似形のフラクタルな庭が出現する。基本の形としてはプレアデスよりもわかりが良いし、それに天に不動な北極星を指し示す星座というのも素敵だ。
湧き水に沈めた黒い石の龍の眼球を、北極星の位置にするのも良いな。
玄武岩の黒は、しかし耐久力に欠けるかな。
やっぱり、あのつややかな黒御影にするか......。
そんなことを、考えるともなく考えている。

それにしても、秋の日差しの美しいこと。
力無く優しく透明な光。
地面に落ちる影はほのかに白く、早くも冬の到来を予感させてくれる。
そう言えば「影白し」は、冬の季語ではなかったっけ?
秋の日差しは、白。
そうだ、白秋と言うではないか。
青春、赤夏、白秋、黒冬。
茫洋とした青はまさに春の色彩。
ひりつく赤も、静かな白も、そして一点を見据えるような冬の黒も。
なんとふさわしい色合いだろう。
ふむ、風水で一番重要な色って何だろう。
湧き水に沈める龍の眼球は、やっぱり黒が良いだろうな。

台湾は風水の盛んな国だ。
僕の持論の一つとして、人間が美しいと感じるかどうかと言うことと、野生生物が暮らすための機能性の間には直接的関係はないと言う、とてもあたりまえな認識がある。
もちろん、まっさらに刈り取られた草地や秋になると幹だけにされてしまう、そんな日本の公園管理みたいなのは論外なんだけど。
整形花壇だって、立派にビオトープの機能を果たすことは出来る。
日本庭園の雪見灯篭だって、ヒヨドリたちのダイビングポイントになっていたりするくらいなんだからね。
なので、今度の台湾の庭は、風水ビオトープガーデンになるのだよ。
考えてみれば、風水もフラクタルも、カオスの力を引き込みコントロールする人間のささやかな知恵に過ぎない。二つを縒り合わせて、より強い構造にするのは意外に簡単な作業だ。
静かな秋の日差し。
ついこの前来た時には、広大な芝生の上空をガラスの破片でもばらまいたみたいに赤トンボたちが飛び交っていたのに、この日はまるで「沈黙の秋」が来たかのように、1匹も飛んでいなかった。
季節の移ろいというものが、いやと言うほど感じさせられる。
あの透明な羽の煌めきが懐かしい。
秋の到来を告げる、光の破片たちが。
と、向こうの木陰に何かが煌めきながら漂っていく.......。

それは、トンボよりも儚い、シャボン玉の光でした。

風、風、吹くな.....。
あのシャボン玉の歌が、儚い命を詠ったものだと聞かされたのを思い出したけど、無邪気に戯れる子供にはそんなこと関係ありませんね。
一点の曇りもない喜び。

過ぎ去った夏の記憶は、木立に囲まれた花壇にもまだ残されていましたよ。
アメジストセージの向こうで灼熱の記憶を歌うカンナの深紅の花弁。
連中は、まだまだ当分の間、炎天に熔けかかったアイスクリームの思い出を謳歌し続けていることでしょう。
汗をぬぐいながら歩いたあの季節のことが、今はもう何世紀も昔の事みたいです。

帰りしな、イチョウの金色があまりに見事で、ついふらりと近寄ってみたら、葉陰に赤トンボがひっそりとまっていました。
もうじき、秋も終わるんですね。