「おい、うわっ」和戸は部屋に入ってくると、鼻を押さえた。
「なんだこの臭いは。また実験か失敗したのか」
「ああ」と答えたのは、名(めい)高(たかし)。そしてここは彼の事務所、名探偵事務所だった。
「化学の実験をしてたんだが、調合を間違えて。窓を開けたんだが…」
「うーん、こりゃひどい」和戸は手でパタパタとあおいだ。
「ところで、一宮博士って知ってるか」
「一宮博士、あ、あの猿顔の物理学者か。確か昔依頼を受けたが、どうみても猿だよな」
「うぉほん」和戸はばつが悪そうに咳払いした。
「その一宮博士の家に家政婦として勤めている、宝麻子さんだ」
和戸の後ろから赤いワンピースを着た女性が入ってきた。彼女はぼーっとした感じの女性だった。
「宝です」
「あ、どうも、猿がねえ、なかなかたいへんで」と名探偵はちょっとしどろもどろになった。「猿、そう、ちなみに宝さん、猿はお好きですか」と唐突な質問をする。
「嫌いです。田舎では猿による農作物の被害があって、たいへんなんです。最近では人も襲うので、駆除しています」
「あ、そうですか。あ、申し遅れましたが、私は名(めい)高(たかし)です」名探偵はにこやかに右手を差し出した。
「名探偵と呼んで下さい」
しかし家政婦は名探偵の手を握り返すことはなく、名探偵は苦笑いしながら手を引っ込めた。
「宝さんが、一宮博士宛の殺人予告の手紙を受け取ったのだそうだ」と和戸が言った。
「博士の家に来た手紙は、必ず私が最初に見るのですが、今日見たらこんな手紙が」
宝が差し出した手紙は、新聞の文字を切り抜いて貼ってあり、
『おまえ
殺す
』
と読めた。
名探偵は手紙の表裏を、じっくりと調べた。
「不思議だ。一行目に『おまえ』、二行目に『殺す』と、紙の上の方に貼られていて、その下はずっと空白だ。一体何のメッセージなのか」と名探偵が首をひねった。
「一宮博士には、これを見せたのですか」
「いえ、博士には見せていません。驚いてすぐここに来たのです。以前博士があなたにお世話になったことを知っていたので」
「昔ちょっとした事件を解決してあげたんです。ところで今までに、こんな殺人予告を受け取ったことはありませんか」
「初めてです。どうしたらいいんでしょうか」
「いたずらだといいんですがね」名探偵は考え深げに言った。
「ちょっと電話してみていいですか」
名探偵が博士宅に電話すると、出たのは警察だった。
博士がナイフで刺されて殺されている、とのことだった。
博士の死を家政婦に知らせると、彼女はショックで椅子に座り込んでしまった。
「大丈夫ですか、宝さん」
「はい。…まさかこんなことになるとは」
「私も依頼を受けたあの方がこんなことになって残念です」
その瞬間、名探偵の頭の中に何かがひらめいた。そして名探偵は言った。
「あなたが博士を殺したんですね」
「あなたは事務所に来て『博士』と何回か言いました。我々は博士(はかせ)と言うのに、あなたは博士(はくし)と言いました。それがこの事件を解くカギです」名探偵は脅迫状をヒラヒラさせた。
「この脅迫状の空白は、『白紙』、つまり『博士(はくし)』を意味していました。つまり
『おまえ(を)
殺す』
ではなくて、
『おまえ
殺す
白紙=博士(はくし)』
つまり
『おまえ(が)、
殺す、
博士(はくし)(を)』
という意味だったんです」
「うわあ、もしこれが書かれた文章だったとしたら、読者には読んだだけではわからない伏線で、文句が出そうだ」
「博士の手紙は、まず必ずあなたが開いて目を通すことになっていました。これはそれを知っている人物によって企てられた殺人だったのです。犯人はあらかじめあなたに催眠をかけ、この脅迫状という殺人実行の命令書を送って殺させたのです。あなたは脅迫状を見てすぐに博士を殺した。その後正気になって脅迫状におびえて、ここへやってきたんですね」
「でも催眠で人を殺させることは、できないはずだ」
「催眠で人は殺させられません。でも猿ならどうです。博士は猿そっくりでした。どうみても猿でした。猿そのものでした。だから人ではなくて猿なんだという暗示もかけておいて、殺人命令書を送ったのです。あなたは実家が猿の被害にあっていて猿を駆除する、つまり猿を殺すことに抵抗はなかった」
「そうだったのか。一宮博士は、どう見ても猿だったし」和戸は言った。
「それにその服。赤いワンピースをよく見れば、血がついているんじゃないですか」
「催眠術で殺した時に返り血を浴びたが、赤い服だったからわからなかったんだな」
「そして血の臭いは、私が化学の実験をミスした結果生じた悪臭で消されてしまっていた」
「なるほど」と和戸は感嘆の声を上げた。
「さすが、名探偵」