須原本の書評を書かれた「志村建世のブログ」を久しぶりで見ましたら 次のような読後感があったので 転記します
「死にたい老人」(木谷恭介・幻冬舎新書)を読みました。この本はヤップ島への旅に持参した唯一の本だったのですが、グアム島でヤップ行きの便を待つ長い時間に、最初から最後まで読んでしまいました。こういう本が出てくる事情はわかりますが、決して気持のいい読み物ではありません。
手にとって購入した動機は、これが死ぬための断食の記録だと表紙に書いてあったからでした。人は食べる力を失ったら死ぬのは自然なことで、その場合の死に方は苦しくないだろうというのは、私の基本的な認識なのです。この本に何度も引用されている「人間は寿命に従順であるべきだ」という司馬遼太郎の言葉も、その文脈で私は妥当だと思っています。
ところがこの著者は、自死の手段として断食を選び、その実践記録を残そうとしたのでした。そして著者は現存しているのですから、その挫折の記録です。修業としての断食は、宗教界には古くからあって、長期の断食の後に地中に居を移し、竹筒で呼吸しながら絶命した後は密閉して、数年でミイラ化するという「即身仏」についての詳しい説明もありました。そういう自死方法の解説書としてなら、どの程度断食すると体重はどの程度減り、意識はどのように変化するかといった記録は参考になります。しかし現代の「死にたい老人」問題の本筋とは、少しずれているように思いました。
かつて哲学者の須原一秀氏は「自死という生き方」を書き、それを実践した遺作を、遺族と友人が出版したことがありました。この本には、自らの意思で人生を閉じることの意味が詳細に説明されており、読後感は、自らがよりよく生きることを深く考えざるをえなくなるような厳粛なものでした。しかし、これもまた一般的な「死にたい老人」の参考には、なりそうもありません。
私が関連して思い出すのは、映画「祝(ほうり)の島」で描かれていた老人たちの会話です。「寝たきりはいかんなあ、島に居られんようになる」「眠って死ねる薬を配りゃいいんじゃ」という、なごやかな談笑の一こまでした。そんな風景に似合うような、老人のための、やさしい指南書は書けないものでしようか。
断食も、ある限度を過ぎると苦痛がなくなって意識がもうろうとなり、恍惚感をもって死ねるのが実感できるそうです。しかし、それまでに空腹感に責められて食べ物の幻影に悩むようでは、そんな実践をしたい人はいないでしょう。折から老人医学会では、終末医療を見直して、胃ろうの中止も選択肢に含める動きがあるそうです。寿命に従順に、苦痛なく枯れるように世を去りたいというのは、大半の老人の願いでしょう。この問題は、今後も禁忌なく話題にされるべきだと思います。
マイクも同感です
老人用に バイアグラだけでなくLSDがコンビニで買える時代が近いように思えてならないのですが それにはマインドイノベーションと言う難関がをどう越えたらいいのか 考え続けます

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