規制推進派は一つ忘れていることがある。
それは、犯罪とは実行した時点、もしくは実行しようとした時点で犯罪になるのであって、思想の段階ではまだ犯罪ではないということだ。
推進派は「児童を性欲の対象としてとらえることのない健全な社会を維持する」ことを目指しているようだが、「児童を性欲の対象としてとらえること」自体は一つの思想である。
よって、これは憲法第19条思想・良心(内心)の自由によって守られるべきものである。
これを否定するということは、=(イコール)思想弾圧なのである。
自民党の葉梨康弘氏が「小児性愛の対象とし、子供をモノとして見ることは悪だという規範を広げることが必要」と主張しているが、悪だとしても思想は思想であり、これを否定するは思想弾圧である。
イクオリティ・ナウの女性のモノ化を阻止する活動についても、同じことである。
また、児童を性欲の対象としてとらえてはならないということは、児童同士が、もしくは児童との恋愛をしたり、児童が同い年の児童に対し性的に興味を持ってはならないということに繋がる。
これは誠におかしなことである。
それに、本来生物は自分のパートナーには、(限度はあるものの)出来るだけ若い異性を本能的に選ぶはずである。
何故なら、その方が多くの子孫を残せる可能性が高いからである。
児童の定義の中には、二次成長の終わっているであろう15、16歳以上も含まれているので、本来児童に対して性的な思想を抱いても、おかしくは無いのである。
つまり、これを否定するということは、全ての根源たる生物の本質にも反しているのである。
子どもを含めた多くの日本人が、チャイルド・ポルノ的なイメージを当然のもののように受容しはじめているとして、この現象の元凶としてオタク文化を名指しして非難している者がいるようだが、文化の非難はその国の存在そのものの否定である。
文化が違うからそれぞれ国として独立しているのであり、文化の統一はその国をその国ではなくしてしまう行為である。
主張が、世界をイスラム思想で固めようとしている、どこかのイスラム原理主義の過激派と同じである。
日本ユニセフ協会が、「ある文化で受容されるものが他の文化ないしは文脈では受容されない事があることを日本人は知るべきである」と主張しているようだが、逆に
ある文化で受容されないものが他の文化ないしは文脈では受容される事があることを世界は知るべきである。
世界が規制を進めようとしているから、日本も規制を進めるのではなく、日本はその規制が間違ったことであると、世界に主張するべき立場にいると、僕は思う。
必ずしも多数派が正しいのではない。
少数派の方が正しく、多数派が過ちを犯すこともあるということを、日本人は忘れてはならない。

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