「悲しい者には悲しい歌が救いなのです」(太宰治「ろまん灯篭」)
地元の駅でたった一人、いつかは俺もと夢見ながら完ソロを続けていた日が昨日のように覚には思い出される。若かりし日々。若さとは年齢ばかりではなく、内面も含めての事。理想を高く持ち、意欲的で、何より無知だった。だが、それからもう何年も経った。
モチベーションの高い期間と低い期間を比べたとき、だんだんと低い期間の方が長くなってきた。そして今では低い期間が生活のほとんどを占める。路上に立つこともほとんどない。
興味が薄れたのだ。女に。人間に。覚にとって軟派とは性欲の発散では無かった。人間とのふれあいだった。女が語る自分史を好んで聞いた。
今でも女の話す物語を聞きたくない訳ではない。語ってくれれば、喜んでありがたく聞く。その話が真実であれ嘘であれ、そこに女の人となりが現れる。覚はそれが好きだった。
懸命に生きる人間像。聖であれ、俗であれ、卑であれ、日々の生活の中の全身全霊をこめた感情の起伏、何に歓喜し、何を憎むのか。自分が自分以外の人間の内面に触れられる事を覚は喜んだ。
自分の持つ喜怒哀楽を伝えてくれる事が嬉しい。しかし、覚はそれを多く聞きすぎた。食傷に陥ってしまった。同時に、飽きた。求めるものではなくなったのだ。

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