朝日新聞【社説】2006年05月02日(火曜日)付
(略)
はっきりしているのは、政治の場で裁判の正当性を問い、決着を蒸し返すことの現実感のなさである。 あの裁判は、戦後日本にとって二つの意味で線を引く政治決着だった。
国際的には、51年のサンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判を受諾し、国際社会に復帰を果たした。平和条約は締約国の対日賠償を基本的に放棄することもうたい、それとセットで日本は連合国側の戦後処理を受け入れたのだ。
国内的には、A級戦犯に戦争責任を負わせることで、他の人を免責した。その中には、昭和天皇も含まれていた。裁判は不当だという立場を貫くなら、あの戦後処理をやり直せと主張するに等しい。講和を再交渉し、米国をはじめ世界の国々との関係も土台から作り直す。そして戦争犯罪は自らの手で裁き直す。
こんなことが果たして可能なのだろうか。裁判の限界を歴史の問題として論じることはいい。だが、言葉をもてあそび、現実の政治と混同するのは責任ある政治家の態度とは思えない。裁判を否定したところで、日本の過去が免責されるわけでもない。
(略)
http://www.asahi.com/paper/editorial20060502.html
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■朝日社説の論旨
(1)東京裁判が不当である主張することは、戦後処理の枠組みを定めたサンフランシスコ講和条約を否定するに等しい。
(2)講和条約を否定するならば、新しい講和条約の締結が必要だ。
(3)そんなことは現実的には無理だ。
(結論)日本政府は東京裁判の正当性を認め、同裁判における事実認定は、客観的に間違ったものを含めて、すべて正当なものとして受け入れなければならない。政治の舞台で批判してはいけない。
このようにまとめると、朝日社説の馬鹿馬鹿しさがわかると思います。
どんだけ馬鹿らしいのかと言えば、
日本国政府が国内の裁判所の判決を批判したことをもって、裁判制度の否定である、と論じるくらい馬鹿らしい無謀な理屈と言えます。
「批判=即否定」と捉えるようでは大人とはいえませんね。
■朝日社説の勘違い
東京裁判が不当であると言った場合、以下の二つが考えられます。
(A)裁判所の【設置】が不当である。
(B)裁判所の【運用】が不当である。
確かに「裁判所の設置そのものが不当」という立場であれば、サンフランシスコ講和条約を否定するものと言ってよいでしょう。しかしながら、東京裁判が不当なものであるという場合、通常は後者を意味します。
具体的には、裁判所の設置は休戦協定であるポツダム宣言に含まれているので正当であるという前提で、
裁判所の運用において、「平和に対する罪」という事後法を遡及させたことは問題である。そういう批判をしているわけです。あるいは、判事として選任された者の大半は、国際法の専門家ではない。中には自国でも法律家ではなく、日本語も英語も理解できないものがいた、という客観的事実を元に東京裁判が公正に行われたとは言えないと、批判しているわけです。
朝日社説を書いた方は
、「運用に対する批判」を「裁判所の設置に対する批判」と混同しているように思います。運用に関しての批判は、サンフランシスコ講和条約を否定することにはつながりません。
■サンフランシスコ講和条約
国際慣習法では、戦時関係を前提とする軍事裁判所の判決の効力は、戦時関係の消滅(講和条約の発効)により効力がなくなることになっています。講和条約発効後も判決の効力を持たせる為には、別途条文で定めることが必要になります。それが下の第11条です。
サンフランシスコ講和条約第11条
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。
これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
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サンフランシスコ講和条約の発効前に東京裁判は終わっています。すでに終了している「裁判を受諾」するということは、「裁判の判決を執行する」という意味になります。講和条約の発効前に東条英機など死刑判決を受けた戦犯は処刑されていましたから、講和条約発効語も無期刑や有期刑を受けた者の収監を継続するという意味になります。これは条文を見れば明らかでしょう。
ちなみに、国際法でも国内法でも「裁判所の事実認定」を強制する法理論はありません。強制が可能なのは「判決」に限定されます。
■事実認定が強制できない理由
日本国内の裁判を例にするとイメージしやすいと思いますが、刑事裁判の場合でも、検察側と弁護側で主張が異なることはあります。民事裁判の場合は、原告、被告の言い分が違って当然と言えるでしょう。裁判所は両者の言い分の聞いた後に、事実を認定して判断(判決)を下します。
裁判所の判決が下っても原告と被告の意見が一致するわけではありません。一方が事実認定に不服がある場合も多いでしょう。「不当判決」などという垂れ幕を下げて走り回る方も時折みかけますね。しかしながら、当事者の一方(あるいは双方が)裁判所の「事実認定」に不服があったとしても、最終的に「判決」は強制力をもつわけです。
言い換えれば、「判決」には強制力があるが、「事実認定」に強制力はない、ということなんですね。これは
刑事と民事で事実認定が異なる場合があるという事実からも分かるでしょう。
また、A級戦犯の死刑を執行させたマッカーサー自身がこのように述べています。
「私の見た東京裁判」(下) 富士信夫著 講談社学術文庫
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人間の行う決定には絶対に誤りがないという事は有り得ない。しかしながら、私は正義を進化させる為に、これ以上に大きな保護の加えられているような裁判の手続きがあるとは考えられない。多くの人がこの判決に違った意見を持つ事は避けられない。東京法廷を構成した学識ある判事達でさえも、完全に意見の一致を見たわけではなかった。
しかしながら、文明社会今日の不完全なる進化の下にあっては、限りある命の生き物としては、この厳粛なる宣告の完全さを信ずる事について、これ以上の権利は与えられていないのである。もし我々がかかる手続きとかかる人々を信ずることができぬならば、我々は何者も信ずる事は出来ない。
ゆえに私は第八軍司令官に対し、国際軍事裁判所が下した通り、刑の執行を行うことを命ずる。
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この声明は当時の新聞に掲載されたということですから、卑しくも全国紙である朝日新聞で社説を書くような方が「知らない」ということでは済まされないでしょう。
占領軍司令官であるマッカーサー自身が、事実認定に誤りがある可能性については認めているのです。批判があるのを承知の上で、裁判手続きが適正に行われた以上、刑を執行すると言っているわけです。
東京裁判の事実認定を絶対的に正しいものとして未来永劫認めろ、などというトンデモな理屈を唱えてはいません。
■不思議な論理
さて、ながらく日本では東京裁判の事実認定を絶対視する「東京裁判史観」が蔓延っていました。占領軍の司令官であるマッカーサーですら主張していないトンデモ理論が大腕を振って闊歩していたわけです。
これは正直いって不思議です。
さすがにインターネットが普及した今となっては「東京裁判史観」なるものは絶滅寸前と言ってよいと思いますが、「夢よもう一度」とばかりに朝日新聞が煽っているような感じを受けます。
余談ですが、朝日新聞の世論調査で面白い結果が出ています。
過半数が参拝に賛成なんですね。
朝日新聞がいくら煽っても、国民を騙すことはできなくなっているのが現実と言えるでしょう。
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