2005/10/27
過ぎた日10月9日(日)3015回の「大ヶ生(おおがゆう)金山の里 縄文祭り」が終了した。
私こと、日常多忙なもので意を決し、その日は暇を作ろうと思い、前日は深夜12時迄歴史語りを書いていた。脱稿の日であったので。
原稿の中味は、本領安堵により和賀一族が亡び、1600年に岩崎一揆が生じ和賀の最後の領主忠親(ただちか)が仙台の伊達政宗の「奥州連合」「伊達百万石」の夢に乗せられ、支援をうけながらも南部に敗れ、伊達領、国分尼寺、法華滅罪の寺で腹を切らされる話の原稿であった「南部と伊達は仲が悪い」といわれて、ここ盛岡(南部)で生れ育った私としては伊達・和賀・南部の三領主の違いをいかに出すかにあり、筆を置いた現在、法官ひいきか、伊達の謀略ぶりと南部の武力による侵略ぶりに少々嫌っ気がさしてしまった。
祭りの里、大々生も天正時代には領主がおり、南部に亡ぼされた斯波氏(しばうじ)の傘下の大萱生玄蓄(げんば)秀卿の領地であった。三戸から南下政策をとり、まず斯波を亡ぼし、逃れた先が大々生の里で、かくまった玄蓄は2〜3日で大萱生を従えた。
玄蓄は南部に650石で仕えるが、死後、墓に文字を刻むことを許されなかったという。でも、この間行って見たら地元の瀧源寺の和尚さんが勝手に法名を刻んでいた「この方がみんな分かり易いから」との事。
南部が江戸時代当初10万石、1644年に8万石と2万石の八戸藩に分轄、その後20万石となった時の江戸御家老が大萱生石見という人だった。領地は変らず格式と納税額が増えただけで藩内は伊達に始めてSOSを発し交易を求め南部の産業が発達したという。
その当時、城下の町人達は 「近江商人が通った跡にはペンペン草が生える。伊達商人がそのペンペン草を刈って行く」と言ったという。
祭りに話を戻すと、来賓に地元出身の元村会議員(現盛岡市議)を始め(この人はいつか「縄文文化」を「なわしろ文化」と呼んだ人で印象深い)、北上市にある鬼の博物館の館長、力丸光雄先生が来て居た。縄文文化を称えていた。ふと見ると前館長の門屋光昭先生が居り、踊りをビデオに納めていた。
大々生の領主の末裔は明治の始め大ヶ生勝治が花巻家老の山屋家に養子に入っている。山屋他人が生れ、日露戦争で海軍大将を務めT字作戦を成功させた人。その子の澄子さんが今年亡くなった。皇太子妃雅子さんの祖母である。
北海道からやはり明治に開拓に渡った一族4名が大々生にその日訪れた。「大義々々」と祝辞を述べていた。
例の三ッ石神社に「鬼の手形」を押して逃げた鬼は一匹しか出現しなかった。でも、妖艶故許すか。
なにしろ、先日迄「法華滅罪」を書いていた故。
踊らせられた「大念仏剣舞」「さんさ踊り」「高館剣舞」「墓への記入」併せて皆許そう。祭りの主旨はそこにある。
祭りの中に歴史をオーバーラップさせるとたいへん面白いものだと、又、原稿を書きつつ思っている。………又。

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