同級生で熱く「邪馬台国」バトル
九州国立博物館 邪馬台国シンポジウム、
21回生の井上修一、矢野壽一両氏が講師に
近畿か九州かで大きく意見が分かれて論争が続く邪馬台国の所在地。どこにあったのかは大きな関心を呼んでいるが、11月8日に太宰府市の九州国立博物館で開かれたシンポジウム「邪馬台国はここにあった」(西日本新聞社主催)で、朝倉高校21回卒のアマチュア歴史家である井上修一(HN筑前)氏および矢野壽一氏の二人がそれぞれの研究結果を披露した。
300人の古代史ファンを集めたこの企画は、同博物館で開催されている「古代九州の国宝」(29日まで)の関連イベント。第一部は畿内説の最も有力な候補地とされる奈良県桜井市纏向(まきむく)遺跡の発掘を担当している同市教委の橋本輝彦氏と、九州説のポイントの一つ吉野ヶ里遺跡を発掘した高島忠平佐賀女子短大学長が、それぞれの立場で最前線のニュースを紹介した。
第2部には在野の研究4人が講師として招かれていて、邪馬台国の所在地を井上氏(大阪府)は「日田〜吉野ヶ里説」、矢野氏(筑紫野市)が「畿内説」、鷲崎弘朋氏(東京都)が「宇佐説」、福嶋正日子氏(久留米市)の「筑後説」と、それぞれが自説を熱くアピールした。
(リポート、写真は21回卒 調@4組)
邪馬台国は畿内大和であり、新解釈で投馬国は多摩 ◆矢野壽一氏プロフィル
朝倉市十文字生まれ、朝倉高校、中央大学を経て保険関連企業へ。現在は退社して、福岡市でIT関連人材の派遣などを行う会社を経営。社長業の傍ら、それまで考え続けてきた邪馬台国についての自説を世に問うため、08年に『波濤万里 邪馬台ニ至ル』を梓書院から上梓。この本の序に同級生である井上筑前氏が寄稿した「『波濤万里 邪馬台ニ至ル』を推さず」との一文があるように、朝倉出身ながら〈畿内説〉を唱えているため「裏切り者」を自認する。福岡県筑紫野市在住。
■矢野氏のシンポジウム発言要旨抜粋
●海の道は順次式に辿るのでなく放射的に
『魏志倭人伝』をどう読むかが課題のようになっているが、私は中国の「正史」は極めて正確であると考える。邪馬台国を比定するには、持論に沿って仮説を展開するのではなく、蓋然性の高い仮説をいくつか組み立て、邪馬台国自体も行程の中の一国として倭人伝を読むべきである。
そこで行程の読み方だが「水行」の場合は≪放射式≫に、「陸行」は≪順次式≫に読む。水行を放射式に読むというのは私以外唱えていないと思うが、海はまっすぐに目的地に伸びており、陸とは違うからである。倭人伝の中に≪魏王に生口(奴隷)160人を献じた≫とあるが、そのためには300〜500人の団体が海を渡って行ったことになる。古代の日本は海洋国家であり、交易が盛んに行われていたのである。《写真は矢野壽一氏》
重要なのは、どの本にも帯方郡から狗邪韓国、末盧国までは順次式で書いてあるが、これは間違いだということ。放射式に読まなければいけない。そうしなかったから、混乱が起きている。
また、行程にも関連するが、倭人伝を書いた陳寿は倭国の位置を会稽東冶(福建省福州市)に位置させるために、帯方郡の報告にあった「東」を「南」に訂正し、全体を整合させるため、末盧国から先の方角を90度時計回りに置き変えたのではないかと考えている。
これらを踏まえ、倭人伝の戸数記述から人口を推測し、一人当たり1反の水田耕地面積を試算したとき2万戸を擁する奴国を基準にすれば、邪馬台国は3万5千fの広さが必要となる。平成15年の島根県が3万4千fだから、いかに広いかということだ。同様にしてみれば、狗奴国、投馬国の4国はそれぞれ、筑紫、大阪、濃尾、関東平野以外には存在しないと思う。
●卑弥呼の都は桜井市纏向遺跡付近
結論としては各国の位置を次のように比定する。
◆邪馬台国は畿内大和で王都は奈良県桜井市の纏向遺跡付近とする。◆投馬国は東京南部の多摩地方とし、政庁は府中市付近か多摩丘陵に存在した。これは新説で、関東がこれまであまり注目されていなかったが、考古学的な見地からもそこに強力な国があったことは間違いない。◆狗奴は三重県桑名市多度付近とする。多度の航空写真を見るとその地形に驚かれるはず。◆奴国は福岡平野にあり、政庁は福岡市東区の香椎宮付近。◆不弥国は宗像市付近にあった。◆伊都国から帯方郡にいたる国については従来説と同じ。詳細は
http://yamatoentaku.comで。
※ ※ ※
邪馬台国は筑後川北岸の日田から吉野ヶ里の間に ◆井上修一(筑前)氏のプロフィル
朝倉市秋月生まれ、朝倉高校、西南大学を経てIT業界に35年。10年ほど前から大阪で歴史倶楽部(30人)を主宰。同時にHP『邪馬台国大研究』を立ち上げ、現在120万ビューを超える。邪馬台国関連のサイトでは最も訪れる人が多い。09年1月にはHPの集大成ともいうべき『邪馬台国大研究』を梓書院から上梓。大阪府吹田市在住。
■井上氏のシンポジウム発言要旨抜粋
●どこかを無視しないと【説】は成り立たない
まず、結論から言えば邪馬台国の所在地は上記の通りだと考える。それだけ広ければどこかにあるだろうという人も多いが、特定の場所を絞り込むには確信できる証拠が足りない。ただ、この地域にあったという根拠を述べる。
私は秋月で育ったが、5キロほど離れた甘木の町に行くのに、まったく違うところに足を踏み入れているような感じだった。昔のクニの単位もそんなもので、今でいう市、町、村のようなものだったと思われる。それらが寄せ集まったのが倭という国家である。《写真は井上修一氏》
『魏志倭人伝』には邪馬台国を取り巻くクニが30ほどあると記されているが、当時、もし邪馬台国が近畿にあったとすれば、300くらいの国名が記されていないといけない。だから、倭人伝が対象とする倭国とは韓国南部から北九州の範囲を示していることになる。
邪馬台国を探るキーワードのようになっている「南へ水行十日、陸行一月」などの文字はその一つ一つが正しいとすればお手上げである。どこにも邪馬台国は存在しないことになる。「一月は一日の誤り」などとどこかを無視しないと【説】は成り立たないのである。
●考古学的にみて北部九州である
考古学的にみて、一番印象的なのは鉄器。倭人伝には鉄の鏃(やじり)が使われていると記すが、弥生時代の鉄鏃の出土状況をみると、福岡県から398個も出ているのに対し、奈良県からはわずか4個しか発見されていない。また、倭人伝には絹の記述が見えるが、朝倉市の栗山遺跡から一般人と思われる絹を着た人骨が出土した。吉野ヶ里もそうだが、こちらでは絹は結構出ているのに、近畿にはほとんど出土例がない。これらからも魏志倭人伝は北九州エリアのことを記述していると結論付けられる。
倭人伝には人口7万人の生活エリアが広がっているとされるが、昔の平野部を考えれば邪馬台国は筑後川周辺エリアにあったと想定できるし、戦い続けている南の狗奴国は熊本の平野部にあったというように考えてもおかしくない。
ではその邪馬台国はその後どうなったのか? 戦乱の時代があって、渡来してきた馬などを使いこなす集団に滅ぼされ、または取り込まれて歴史から消えていったのではないかと考える。4世紀には大和を中心に新たな古墳が築造され、新たな文化が広がっている。それは九州の邪馬台国を消滅させた人々が、東へ東へと進み、大和政権を築き上げたのではないかと考えられる。その源は朝鮮半島であり、中国大陸である。自説の詳細はHP「邪馬台国大研究」
http://inoues.net/index.htmlへ。

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