2016/7/27

「天下茶屋」という駅  短歌

両親の出身地といい、最近の顧客先といい、何かと大阪南部と関わりの深い私だが、これまでは「天下茶屋」という駅とはあまり関わりがなかった。しかしながら最近は、4月から母校の和歌山大学で基金室の仕事を特任の職員として担当することになり、同窓会の事務所のある谷町四丁目に立ち寄ってから自宅へ帰る際の乗り換え駅としてこの駅を使う機会が増えた。

まず「天下茶屋」という名前は特徴的である。その由来を調べてみたら、やはり太閤秀吉と関係があった。ここは古代から「天神ノ森」と呼ばれる鬱蒼とした森であったが、千利休の師にあたる武野紹鴎がここに湧く水のよさに着目して茶室を建てた。天正年間には、楠木正行の子孫が道を開いて茶屋を出していたところ、住吉大社への参拝のあと立ち寄った関白秀吉が千利休に茶を立てさせたが、その味の良さを誉め茶屋の主に褒美を与えたことから「殿下茶屋」そして「天下茶屋」と呼ばれるようになったと伝わる。

さて天下茶屋駅だが、南海電車の主要駅であるほか、阪急電車と接続した地下鉄堺筋線の南のターミナル駅でもある。そのせいか、駅前は意外に広く商店街もなかなか賑わっている。ターミナル駅前によく見られるように、ここにも立呑屋があるので、思い切って飛び込んでみたところ、つまみの品々はまずまずの味である。料金もなかなかリーズナブルであり、満足のいくものであった。

ふと考えたが、人間というものの行動パターンというか行動範囲は実はかなり限られていて、いつも同じルートを通り同じ景色しか見ていないなあと気づいた。たまには、いつもと違う場所に行ったり、違うルートを通ったり、足を延ばしてみるのもいいものだと感じた。

「梅雨明けて本格シーズン来たるぞとうごめき初めし山男かな」

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2016/7/18

典型的な自己中心の姿  短歌

前にも書いたが、地下街などの繁華街で歩いていて他の人とぶつかったりぶつかりそうになることが増えた。私の歳のせいかとも考えていたが、とうやらそうでもないということを感じた。ぶつかる人にはいくつかの共通点があることに気づいたからである。

それらは例えば、人混みの中でも堂々と大きく両手を振りながら歩く、電車を降りる改札口前で急に立ち止まり改札口をふさいだままでバッグの中を探り始める、何らの予兆なく急に進行方向を変える、電車を待つホームで整列をしない、数人が横一列になって歩く、などなどである。

彼らに共通する特徴は、自己中心ということであろう。要するに、自分のことしか考えていない、あるいは考えることができないのである。考えていないから、自分が周りに迷惑をかけているとか、嫌な気持ちにさせているとは露ほども感じていないのであろう。その証拠に、仮にその人の前でしかめっ面をしても、何ら表情を変えないか、あるいは怪訝な顔をするばかりである。

さらに言えば、多くのまともな女性には申し訳ないが、そういう行動をとる人はなぜか若い女性に圧倒的に多い。この理由は何なのだろうか?正確にはわからないが、何となくわかるものはある。

いずれにしても、こういう行動が典型的な自己中心からきていることだけは間違いあるまい。

「梅雨明けの山に残れる紫陽花の色鮮やかに時巻き戻し」



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2016/7/15

愉快なバス車内の注意表示  短歌

和歌山大学前駅から和歌山大学までの約5分のバスの車内の表示に思わず笑ってしまった。最近はどこの地域のバスにも表示されている「車内事故防止」の呼びかけの表示だが、それが地元の懐かしい和歌山弁で書かれていたので、そのユーモアに思わず微笑んでしまったのである。

それらは写真にもあるが、次のようなものであった。
「あわてやんで(慌てずに)ゆっくり降りたらええわよぉ」「危ないさかい、走行中や信号待ちで座席移らんといてやぁ」「こけて怪我する人、がいに(すごく)増えてきちゃーるで」「いごかんと(動かんと)、じっと待ってるしか安全やし」何とゆったりしたことばではないか。

和歌山市は大阪の難波駅を出て約1時間の距離であるが、不思議なもので、ちょうどその真ん中の岸和田あたりを過ぎたころからは耳に入ることばは和歌山弁に近くなってくるのである。そういえば、かつては和歌山という町は徳川御三家の筆頭の55万石の城下町であり、明治の初期でも和歌山市は全国第6番目の人口を誇っていたそうだから、紀州の北隣の地域である泉南地方が、大阪よりも和歌山からのほうが大きい影響を受けていたし経済圏としても和歌山経済圏に含まれていたと考えても不思議ではない。

それにしても、方言というものはなんと耳に優しく響くものなのだろうか。片道2時間以上かかる毎週1回の和歌山行きは身体的にはこたえるが、こういう余禄が楽しめるので、たまには生まれた地へ帰るのも悪くないなあと感じた。

「梅雨さなかバスの表示にふる里のことばを見つけ心和めり」

 和歌山バス車内の表示
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2016/7/9

先生と呼ばれるセカンドライフの幸せ  短歌

先輩の真似をして独立起業してから7年半が過ぎた。独立してからの私への呼び方は、先生、社長、北村さんなど様々だが、一番多いのは先生であろうか。私自身はどんな呼ばれ方でも気にはしないのだが、起業当初は先生と呼ばれる度に何となく気恥ずかしさを感じたことを思い出す。

セカンドキャリアとして人事コンサルタントを選び生活の中心に据えた今、先生と呼ばれるセカンドライフも悪くないな、幸せだなとつくづく思う。高校を卒業してからちょうど50年、この節目のを記念して来年2月には学年合同の同窓会を開くことになり、何とこの私が代表幹事になってしまった。

その打合せに出てくる幹事団のメンバーは、ほとんどが自営業など何らかの仕事をしている。それはそうだろう。同窓会といえどもそれなりのイベントを開くにあたってはかなりの労力も体力も企画力も必要となる。となれば、やはり今も現役として活動している人が中心となるのは必然であろう。

先生と呼ばれることは、今だに何らかの点で現役であり、社会のお役に立っている証なのかもしれない。そう考えると、その呼ばれ方にはもう少し自信を持ってもいいのかもしれない。いや、そう考えることにしよう。そして、明日からも一人でも多く、一社でも多くねのお役に立てるよう、精進を重ねよう。

「梅雨明けを待たず雲らはもくもくと真夏の空を形づくるなり」

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