2016/2/28

名医の条件  短歌

先日久しぶりに風邪気味になったので、早い目の対処を心がけて近くのかかりつけ医を訪ねた。予約なしだったのでかなり待たされたが、通された診察室はそのクリニックの院長の室だった。五十代後半と思われる院長とは、母親の診察に何度か付き添っているので顔見知りではある。

院長はまず、どんな自覚症状があるのか、それはいつからかなど、私の症状を詳しく聞いていく。そのうえで、喉の奥を見たり背中に聴診器を当てて肺の音を確認したりする。そのあとは、咳や啖、水鼻などの症状のうちではどの症状が一番辛いですか?と聞いてくる。さらには、素人にもわかりやすいことばで症状や薬の処方方針を説明してくれた。その結果もらった薬は言わば私専用の薬のようなものであるから、丸一日後には風邪の症状はみごとに治まっていた。

もとより医師や医療というものは、「手当て」ということばが表すように患者に手を当てて病気を診ることである。ところが現実には、患者を見ずパソコン画面ばかり見て、検査結果の数字データばかりを診断の基準にする医者の何と多いことか。その傾向は特に若い医者に多く見られる。それは、数字など目に見える指標を大切にしすぎて社員の意欲や士気など目に見えないものをないがしろにしている最近の企業経営のあり方に似ている。

これに対して思い出すのは、東京慈恵会医大を創設した高木兼寛博士のことである。海軍の軍医であった彼は、世界でまだビタミンが発見される前に、兵士に蔓延した脚気(かっけ)の原因が食生活にあることを突き止めて、麦飯に切り替えたら脚気がなくなったという功績により男爵に叙せられ、周りからは「麦飯男爵」と呼ばれた人物である。これは同じ時期に陸軍の軍医をしていた森鴎外達が必死で顕微鏡を覗いて病気の原因を突き止めようとしていた動きとは対照的である。

彼の残した有名なことばに「病気を見ずして病人を診よ」というものがある。これは医者の心構えの原点とも言うべきことであり、またこれこそが名医の条件とも呼べるものではないだろうか。身の周りに名医がいることを知り、ありがたいことだと感じた。

「ものごとの結果と原因見極めよ取り違へるは本末転倒」

「一流の人は難事を平明なことばで語る人を指すなり」

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2016/2/25

妻の短歌を手伝う喜び  短歌

最近、たまにではあるが妻が短歌を作っている場面を見ることがある。私が我流ながら七年間くらいやっているのを見て、楽しそうだなと刺激になったのかもしれない。もちろんまだ始めたばかりだから、できばえはというと私にさえ及ばない程度だと感じられる。

それでも私は何となく嬉しさを感じた。それは、一つには夫婦で同じ趣味を持つことができたからである。趣味が同じなら必然的に会話の回数が増えるし、その会話の中に彼女の喜怒哀楽とその理由がわかるからである。さらには、彼女の詠む歌には最近は前向きなものが増えているように感じられるからである。

折も折、今朝も一首の歌を私に突き出して、推敲をしてくれと言うではないか。それは、眼前にそびえ立つ生駒山をモチーフとして、力強く生き抜いて行こうという内容の歌であった。文法や用語にも問題がないだけでなく、私はその内容に感動して、何も言わずに妻に返した。

難病と闘いながら、自分の足元や口元が思うようにいかないことが多いので、ややもすると投げやりな言動になりやすい場面が多いだけに、この姿勢は彼女が生きる力を絞り出していることをひしひしと感じさせる。彼女ですら年々弱りゆく自分の体力と闘っているのに特に健康不安のない私がへこたれてどうするんだ、という声がどこかから聞こえてきそうである。負けずにがんばろう。

「我が妻の詠める短歌の推敲は誰(た)のためならず我れのためなる」

「我が妻の詠める短歌はできよりも心根にこそ真価を認む」
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タグ: 短歌 生きる力 覚悟

2016/2/21

司馬遼太郎を見直した  短歌

友人の勧めで司馬遼太郎の「空海の景色」上下2巻を読んだ。それは1300年前に高野山を拓いた弘法大師の若いころの物語である。彼の足跡は全国のあちこちに残されているが、中でも彼が生まれた讃岐にはより多くの史跡があるし、西国八十八ヵ所はその代表的な例であろう。

この本の特徴は、残された文献が少ない中で、司馬の想像力が遺憾なく発揮されていることだ。つまりは、まるでそこに居合わせたかのような表現がそこここに見られるのである。もちろん、確率の高い想像や推定とそうでないものとは表現に微妙な違いはつけている。司馬の表現力は素晴らしく、あたかも彼がその時代にいて見たままを表現しているかのような錯覚にとらわれるほどである。司馬遼太郎を見直した。

中でもこの本で初めて知り驚いたことは、密教を修得するため唐に渡った空海が桁外れの語学力と記憶力を発揮して密教のすべてを極めて短期間で引き継ぎを受け、通常なら20年かかっても得られないほどの成果を携えてたった2年で帰国した、という事実である。またもう一つは、空海と同じ年の遣唐使船で唐に渡り密教のごく一部だけを修得して一足先に帰国した最澄に対して尋常ならざる嫌悪感を持ち言動に表した、ということである。

弘法大師としてその名前や数々の伝説は聞き知ってはいたが、ここまで深い空海像の分析と紹介に出会ったことはない。まさに、空海の「人間像」が生々しく語られている。空海自身もまるで戯曲のような書物を書き残したとこの本にもあったが、司馬もまたその技法を意識したのかもしれない。いずれにしても、記憶に残る一冊であった。

「如月の日ごとに変はる気温差は三寒四温と笑ひて済ませず」

「また一つ春の気配を感じつつ襟立て進む弱き歩みを」

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2016/2/17

ニギハヤヒノミコトが選んだのは生駒であった  短歌

何でも始めることが得意な先輩社長が始めたことの一つに「古代史探訪会」というのがあり、私も昨年から参加させてもらっている。メンバーは、老若男女合わせて9名、職業もビジネスマンから独立起業家、主婦まで様々である。毎月1回例会を開き、各人が順番で研究テーマを発表している。

先日は古代史には初心者である私の担当であった。何しろ他のメンバーは昔から勉強している強者揃いである。先ずはテーマ選びでつまずいた。昔から気になっていたのは「ヤタガラス伝説」や「岩船伝説」であるが、どちらにすべきか、どちらもそれを主題とした文献や書籍が少ないこともあってなかなか絞りきれない。

期限ギリギリになってようやく「岩船伝説」に決めた。さてそれからもたいへんである。少ない資料の中から関連の強いものを取り上げて整理していく。発表資料が完成したのは例会の数日前であった。自分なりにはまずまずのできとなった。というのは、今回の研究を通じてひとつの発見をしたからである、。

それは、この国に初めて誕生した大和朝廷をつくったいわゆる「神武東征」の前に既に他地域から大和に降り立ちここを治めていたニギハヤヒコノミコトという神がいた、という伝説が残されていることと、彼が降り立ったのが大和すなわち奈良の中でも何と我が生駒市の北東部の「鳥見(とみ)」や「登美ヶ丘」や「富雄」と呼ばれる地域だということがわかったことである。しかもそのルートは、出雲から播磨を経由して生駒に至ったらしいことも突き止めた。

これには驚いた。神武の「天孫降臨」の前にニギハヤヒコノミコトの「天神降臨」があり、しかも降臨した場所が生駒市であるとは夢にも思わなかった。思わぬ収穫のお蔭で古代史に対する関心が一気に高まった。次回までには全国各地に点在する岩船伝説の場所を実際に歩いて、より一層研究の深度を深めたいと思った。

「この国の成り立ち求め岩船の伝説を知る調査進めて」

「出雲より岩船に乗り大和へと降りし神の思いをぞ知る」
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2016/2/13

「もったいない市」というやり方  短歌

我が生駒市では「もったいない市」というイベントが地域ごとに定期的に行われている。各家庭で不要になった食器類を中心とした家庭用品を公民館的な施設に持ち寄って、いわゆる不用品交換をするのである。妻に頼まれて我が家の不用品を届けたついでに、二人で出品されている品々を閲覧した。

すると中にはまだまだ使えるものが多く、中でもガラスや瀬戸物の食器というものは何度も繰り返して使える「リユース」に向いた品物だとつくづく感じた。今さら振り返るほどのことではないが、古来から人々はものを大切にして、再利用することを当たり前のようにやっていたのだなあと感じた。

他の町ではこういうことをやっているのだろうか?こういう時代だから、やっている市町村もあることだろう。もしやっていない町があるのなら、このことを知らせて是非にも始めてもらいたいものだ。そういえば、最近はリサイクルの店だけでなくリユースの商品を扱う店も増えてきたように思う。

行政やお役所もたまにはいいこと、民間より先に進んだこともやっているのだということがわかり、少しだけ嬉しくなったひとときではあった。

「寒きならひねもす寒さ保つべし寒暖の差の大きぞ辛し」

「大寒に我より若きの逝きたるを寒さ忘れて冥福祈る」
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