2013/7/28

3Dプリンターはプリンターなのか?  短歌

最近3Dプリンターが脚光を浴びている。その可能性に目をつけたオバマ大統領もアメリカ産業活性化のためのPRに一役買っているほどである。

3Dプリンターとは、MRやCG技術などにより得られた三次元データを積層して樹脂で立体物を生成するプリンターのことで、わかりやすく言えば歯車のような精密な部品やグリコのおまけのフィギュアのような立体的なものも簡単に作り上げることができるプリンターのことである。

つい最近、日本製のプリンターが発売された。マニュアルが日本語だし、一年間のメーカー保証もついているので人気が出ているらしい。しかも従来100万円以上したものが20万円を切ったために結構な人気を呼んでいるらしい。

ところで、これはもはやプリンターと呼ぶべきなのだろうか。かつて電子計算機と呼ばれたコンピュータが今や単なる計算機ではなく様々な機器やシステムの制御器となっている実態に鑑みると、それはむしろ造形機と呼ぶべきではないだろうか。

そう、この機器はプリンターすなわち印刷機ではなく立体的な形をつくる造形機と呼ぶのが相応しい気がする。実際、主要部品には造形台というものもあるくらいだから、造形機または立体成形機というのが適切な気がする。

かつてのコンピュータがそうであったように、最初はなかなか人々に理解されなかったが理解した人たちが次々とその活用方法を見出してどんどんと素晴らしい進化させてきた、こういうものこそが「イノベーション」と呼ぶにふさわしい気がする。この3Dプリンターにも同じにおいを感じ取ったのは私だけではあるまい。

「日を追ひて新しき価値産み出せるそれをこそ呼ぶイノベーションと」

「人間の叡智は既に立体を生成できる技術を得たり」
2

2013/7/23

産直市場が流行る理由  短歌

あちこちにある産直市場が流行っている。理由は野菜などの品物が新鮮であること、生産者の顔がわかり安心感があること、値段が安いことであろう。産直だから新鮮なのはわかるが、ではなぜ安いのだろうか。色々あるだろうが、大きい点は中間マージンが取られていないからではないだろうか。

ではその中間マージンをとっていたのはどこかというと、農協である。農協は、農業協同組合法によって定められており、農業生産力の増進と農業者の経済的・社会的地位の向上を図るための協同組織とされているが、古くから農民の自主的運営にはなっていない点が問題視されている。

その組織は上部団体である中央官庁とべったりで、上意下達の傾向が強く、またその組織力を政治がうまく利用していることも知られている。つまりは、かつての日本航空と同じで、顧客や従業員のほうを見ずに農水省などの中央官庁と自分達のほうばかり見ている組織に他ならない。

ITが浸透してきたことによる変化のひとつは「中抜き」である。中間的な組織や管理職など中間的な立場の役割がこれによって大きく変化したのが今の時代である。中抜きによって、様々な業種で大きな業態の変化が生まれたし、管理職の役割の中で情報伝達の役割は極めて小さくなってしまったことは周知の事実である。

しかし農協のみは時の権力と癒着して今でも中抜きの影響を受けず、のうのうと生き延びているのである。しかしその会員たるや今は農家である正会員は460万人で農家以外の准会員のほうが510万人と、構成員の過半は農家以外の人達が占めるようになっている。

戦後すぐの時代には純粋に農業政策の充実のための存在であり一定の役割を果たしたのであろうが、今の時代では農協の存続そのものが目的になっているように思われてならない。だとすれば農協はもう要らないのではないか。その存在自体が実質的に農水省の下部機関となり構成員や顧客である一般市民のほうを向いていないからには、むしろ存在しないほうが日本のためである。

産直市場の隆盛ぶりを見るにつけ、そんなことが頭をよぎった。

「百年も経てば組織の役割は大きく変はる見直しすべし」

「長きこと世の中のため役立つも長すぎること逆効果なり」
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2013/7/18

本を読んで涙する  短歌

親友である先輩社長の呼びかけで始まった「メートル読書会」が2年目の後半にさしかかっている。この会のルールは、マンガと雑誌以外の本を1年間に厚さ1メートル以上読もうというものである。冊数にすると70〜80冊になるので、わが家は本であふれかえっているが、最近の私の読書の傾向にはある変化が見られるようになった。

当初はビジネス書だけしか読んでいなかったのだが、メンバーから刺激を受けて久々に小説も読むことにしたのである。手始めは、毎年のようにノーベル賞候補に名前が挙がる村上春樹の最新刊であった。しかしタイトルの付け方の面白さやしっかりとした構成には感心したものの、感動や感激までは感じなかった。

次に読んだのは、百田尚樹の「永遠のゼロ」である。こちらのほうは読み始めからぐいぐい引き込まれて一気に読み進んだばかりでなく、途中で2〜3回読みながら涙が出てきたので驚いた。特に2回目は電車の中で急に涙が出てきたので恥ずかしくて対処に困ったほどであった。

小説を読んで涙を流したのは、小さいころにいわゆる名作ものを読んだ時以来である。もちろんビジネス書では涙は出ないので、本を読んで涙したのはずいぶんと久しぶりということになる。大人になっても小説を読む人の気持ちはわからなかったし、どうせフィクションなのだからたかが知れていると考えていたのだが、今回は考えを改めることにした。

思うに、これまでの自分は関心がビジネス関係のことに偏していたのでどうしても左脳中心で考えたり話したりすることが多かったのであろう。ところが小説はむしろ右脳中心で読み、考えるのではなく「感じる」読み方なので涙も出てくるのであろう。

何か忘れていたものを思い出した気持ちであり、今さらではあるが今後はもっと小説も読みたくなった私である。

「読み方や感じ方まで違ふものビジネス書籍と小説とでは」

「思ひ出せり長く忘れてをりしもの小説により得る感動を」
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2013/7/15

あるコールセンターの限界  短歌

あるコールセンターに電話をかけて当方から商品名を出したとたんに、電話の相手先の女性は得たりとばかりに早口の説明をし始めた。こんな場面に出くわした人は私だけではないかもしれないが、今回の場合、私は実に不愉快な印象を受けた。

その女性にすれば、その商品に関する問合わせや苦情がよほど多いから反射的に「ああ、その件ならこれこれこういうことです」と答えたかったのかもしれない。または、その女性は日ごろからよほど勘の鋭い人なのかもしれない。しかし今回の私の用件は、その商品そのものではなくその梱包に関するちょっとした問題点とその解決策の提案だった。

どんな商品や場面であっても、最後までとは言わないが相手の言おうとしていることが何であるかを確実につかむまでは先ずはひたすら聞くことが大切だと思う。仕事に対する慣れなのか熱心さなのか、商品に対する愛着からなのか、あるいは本人の性格なのかはわからないが、今回の女性は十分は聞かずに自分が言いたいことを言っただけなのである。

言うまでもなく、コールセンターとはお客からメーカーに対するコールであって決してその逆ではない。もとよりコールセンターという部署への電話はそのほとんどがクレームであろうから、担当者もつい電話に出る前から身構えてしまっているのかもしれない。またその上司も、相手に言い負かされてはいけないなどという指導をしているのかもしれない。

気持ちはわからないでもないが、それではコールセンターをつくっている意味がないのではないか。頭からクレームの電話だと決めつけて対応するのではその組織は役割を果たしているとはいえない。確率はきわめて少ないかもしれないが、今回の私のように問題点の指摘だけではなく、その解決策のアイデアの提案のために電話をかけてくる人もいるはずである。

組織というものはつくっただけでは意味がなく、その組織の役割を十分に理解して当たらなければならないこと、ある意味でのピンチをチャンスに変えることも可能であること、そしてそれらができるかどうかは担当する人の姿勢や考え方次第であるということと、結局仕事をするのは人間なのだなあということを改めて痛感した。

「クレームもその活かし方次第ではピンチをチャンスにできるものなり」

「ものごとを悲観的にしか見られない人には宝も芥と見えて」
1

2013/7/10

相撲の発祥地  短歌

地元の近鉄電車に乗っていてふと見上げた車内吊りの広告に目が行った。そこには「相撲の発祥地・葛城市」とあり、それは近鉄電車に乗って葛城市へいらっしゃいという趣旨の、沿線の名所紹介の広告であった。そういえば葛城市の近くの二上山に登った際、同市内の当麻寺(たいまでら)の近くに「相撲博物館」というのがあったことを思い出した。

一方では先日の新聞に「相撲発祥の地とされる奈良県桜井市の相撲神社で、力士の始祖・野見宿禰(のみのすくね)の雄姿を刻んだ石碑の除幕式があった」という記事を見つけた。共に奈良県下で近い町ではあるが、どちらが本当の発祥の地なのだろうか。

日本書紀では、崇仁天皇の時代の7月7日に相撲神社の境内で、出雲出身の野見宿禰が地元の当麻蹶早速(たいまのけはや)と勝負し、野見宿禰が勝利したことが伝えられている。というわけで、どうやら日本最初の相撲をとった双方の力士のゆかりの土地がそれぞれ発祥の地と名乗っているようである。

それにしても奈良県には、相撲や日本酒などのように「日本初」や「発祥の地」が多い。しかしそれを十分に生かしきれていないばかりかそのことを知らしめようとする姿勢も弱い。同じように長い歴史を持ち文化的、芸術的な文物の多い京都が国際都市として発展しているのとは大きな違いである。これはどういう理由によるものであろうか。

思うに、それは奈良という土地柄が過去の栄華に胡坐をかいて中途半端なプライドを持っていることや、内向きで外部から知恵や力を取り入れようとしない「モノカルチャー」のせいではないだろうか。京都にも同様にモノカルチャーは感じるが、それでも京都は外部の力をうまく結集する知恵を働かせていたようだ。その結果、奈良に都があったのは飛鳥時代と平城(奈良)時代を通算してもせいぜい200年間であるのに対して京に都があったのは1000年近くにのぼるという差が出ている。

奈良県に住んで5年半になる住民の一人として、「偉大なる田舎」とも言われる奈良の発展に少しでも貢献したいと考えるこの頃である。

「我が国のことの起こりはまほろばの大和の国にあまた残れり」

「まほろばの大和の国の現状は京都に比して見る影もなし」
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タグ: 相撲 発祥地 奈良県



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