2011/3/28

独りよがりのCS宣言  短歌

取引のある地方銀行のホームページに麗々しく高らかに「CS宣言」が掲載されてから約2年が経過した。これは同行の社内に2009年4月に設置された「CS向上委員会」が、同行のCS(お客さま満足)向上の取り組みと姿勢をお客さまに広くお知らせするために公表したものだそうである。

それによるとこの宣言の目的は、CS向上委員会での助言や提言をはじめ、お客さまに対するアンケートの結果や日ごろいただくお客さまの声を踏まえ、(1)基本対応、(2)商品・サービス、(3)お客さま対応力(待ち時間短縮、お客さまへの説明力、相談対応力)の3つの観点からの同行のモットーを明文化したもの、とある
しかし驚くなかれ、このホームページには、意見や提言や提案を記入できるコーナーがない。「お問い合わせ先」はあるのだが、それは取引の方法に関するものだけでしかも電話番号だけしか書かれていない。ネットで意見や提言ができないばかりか、問い合わせにも答える仕組みをもっていないのである。すなわち、自分たちが伝えたいことだけがきれいなことばで並んでいて、お客が伝えたい・聴いてもらいたいと思っていることを聴こうとする姿勢がないのである。

それに気づいたので、1年くらい前にその銀行の頭取とCS向上委員会宛に封書でホームページの改善を提案したのだが、地元の支店の支店長代理が我が家まで飛んできてお詫びとお礼を言って帰ったきりで、それから1年たってもさっぱり改善の兆しはない。ここにきて、同行のCS宣言の正体がはっきりしてきた。それは、顧客不在のもので、内向きで社内の上向きで独りよがりのものであったのだ。しかもそれをホームページを通じて世間に公表していて恥とも感じていないのだから気の毒にさえなってくる。

お客からの様々な意見や提案や問い合わせすら吸い上げようとする姿勢がない企業には、クレームを受けつけようとする考え方がないのは明白である。それこそが真のサービス向上に直結するものであるのに、である。所詮は内向き・上向きで、悪い意味でのお役所仕事的な企業体質を顕著に表わしたものであり、一時的な流行りに乗じてお付き合い的にやってみただけのものであったのである。しかしよくよく考えると、我々の身の回りには同じようなこととが案外に多いとも感ずる。もって他山の石とすべきであろう。

「CSは客の願ひに沿ふものぞやってあげるは自分本位ぞ」

「見てくれの独りよがりのCSは企業体質みごとに映す」
2

2011/3/26

「心は見えないけれど」  短歌

大震災以降、民放テレビでAC(広告ネットワーク)が繰り返し流しているCFの中に心に残る詩がある。いやになるくらい繰り返されているので、誰でも覚えてしまうフレーズである。それは、「心は誰にも見えないけれど、心くばりは見える。思いは見えないけれど、思いやりは誰にでも見える」というものである。

気になったので調べてみたら、宮澤章二という1919年(大正9年)埼玉県羽生市生まれの詩人・作詞家の詩「行為の意味」の一部であることがわかった。彼は東大文学部卒業後、高校教師を経て詩人となり、校歌や合唱曲、童謡などの作詞を多数手がけたらしい。中でも「ジングルベル」の訳詞者として知られている。

何もつけ足すことも削ることも要らない、全くそのとおりで共感できるものである。心の中にストンと落ちてくる。これこそ、ことばの素数というか元素というかエッセンスというべきものである。短歌を学び、ことばを扱う仕事をやっている者として目指すべきところを知った、一流のものに触れた思いがした。真に心を打つものには無駄がないし、美しいものである。

「短くも人の心に訴へることばの思ひ胸を打つなり」

「震災の被害憂へるその前に心配りと思ひやりこそ」
3

2011/3/24

「想定外」を許していいのだろうか?  短歌

東日本大震災の影響による福島県の原子力発電所のトラブルが世界中の注目を集めている。それは原子力発電の推進に大きなマイナスイメージを与えてしまった。その責任は極めて大きい。

その事故に関する電力会社の説明を聞いていると、「想定外」という表現がよく使われるし、「想定外」と言えば何となく許される雰囲気すらある。しかし果たしてそれでいいのだろうか?

人間の身体や人命に大きな被害を与える可能性の高い原子力を敢えて扱うかぎりは、あらゆるケースを想定し何重にも安全対策を施しているべきではないのか。それこそ想定外のことすら想定したものでなくてはいけないのではないだろうか。

もちろんそれが簡単なことでないことは私にもわかるが、「想定外」ということばを使えば罪が許された気になっていないのだろうか。また我々も何となくわかったような気になったりやむを得ないという気持ちになっていないのかがひどく気がかりである。

「事故のたび理由に挙がる"想定外"それを許して事故は減るまじ」

「安全は想定外のその上を想定してこそ守らるるべし」
1

2011/3/19

売りたし買いたしコーナーの今昔  短歌

最近は、書籍の購入にはインターネットを利用することがほとんどである。理由は、大きな書店まで出かけるのには往復1300円の電車賃と最低1時間半以上の時間を要するからであるが、ほかにも自宅に居ながら様々な書籍やその書評を閲覧できることと、一定以上の購入額なら自宅まで無料で配達してくれること、そして中古本なら格安で購入できることがある。

そういうサイトの利用方法としては、これまでは購入者としての立場だけであったのだが、今回初めて出品者としての立場を経験することができた。昨年末に購入したi−Padの無線通信用ルーターを購入したものの同じ機能の品が既に自宅にあったためダブってしまい、3ヵ月くらい机上に放置していたのだが、書籍を購入した際にふと思い立ってそれを出品することにしたのである。

初めての体験であったがネット上での操作や手続きはそれほど難しくはなく、昨夜出品していたところ今朝がた早くに早速買い手がついたので、我が家の隣のコンビニから東京の購入者宛に宅配便でお送りした。梱包を開けただけの新品同様の品物であったので、ほとんど購入時の価格で購入してもらえたため、色々な意味でムダにならなくてよかったと思う。

実はインターネットオークションの最大手にも登録しようとしたのだが、様々なトラブルや詐欺行為などの回避のためだとは思うが、登録作業が複雑なため途中で放り出してしまった。また仮にうまく出品できてもオークションという性格のため、一定期間は待たねばならないが、今回の場合は価格設定がリーズナブルであったせいか一晩寝ている間に買い手が決まってしまったのはありがたい。

昔風の言い方をすれば「売りたし買いたし」コーナーであろうか、こういう世界も実に広く早く正確に情報が見聞きできるようになったものだと思う。まさにスピード時代であり、情報社会のお蔭である。こんなことなら、転居のたびに捨ててきた品々も、それを欲している人にご紹介して安くお分けすることによって喜んでもらえたのかもしれないとちょっぴり後悔した。大震災のあとにわかに沸き起こっている節電の気運と同様に、「もったいない」意識にも改めて目覚めた次第である。

「不要品をインターネットで紹介し購入希望を募る便利さ」

「ネットでの売りたし買ひたしコーナーは早くて安くその上便利」
5

2011/3/16

東日本大地震被災地の復興を願う  短歌

東日本大地震の発生を受け、繰り返し伝えられる被災状況を見聞きしていて、そのあまりの凄絶さのため、この1週間はブログを書く気にさえならなかった。

最も被害の大きい東北地方には親戚や知人はいないが、東日本に住む何人かの親戚や友人に恐る恐る安否を尋ねてみたところ、概ね「室内は上から落ちてきたものなどで散乱しているが、幸いにも命には別状なく被害も大したことはない。離れて住んでいる家族も無事が確認できた。」との答が返ってきている。

彼らが異口同音に言うのは「東北の被災者の方々と比べたら自分たちはまだ随分とましであり、こうして生きていられるだけでも幸せである。そう考えれば少々の不便やトラブルは辛抱できる。」ということである。確かにそうかもしれない。東北各県の被害の状況はそれほど悲惨である。

それに比べて、震源から遠く離れた関西の我々は、すさまじい状況の報道に接するにつけ、何か自分たちにできることはないかと実にもどかしい気持ちでいっぱいである。実際、知人達との間ではそういう会話が多く交わされている。さりとて自分が現地へ飛んで行くわけにもいかないので、せめてもの気持ちを義捐金としてお送りすることしかできていない。

よく言われることだが、人間というものはこういう修羅場でこそ本性や実力が現われるものである。その点で、一部の電力会社のひどい混乱ぶりを除けば関係者の方々の冷静な対応ぶりは見事である。諸外国もそれを認めると共に、日本と日本人への救援や各種支援の行動を早速起こしてくれていることには感謝しなければならない。ありがたいことである。

あとは、それぞれが自分の役割を早く見出してそれを粛々と実行していくことと、被災地の復興に向けて各自ができることを淡々と果たしていくことしかないのだろうと思う。

私にとって「3月11日」という日は、亡父の誕生日であり初孫の誕生日でもあったのだが、そこにまたひとつ別の重要な意味を持つ忘れられない日が加わってしまった。

「狭庭では白梅すでに咲き出すもみちのくの春いまだはるかに」

「震災の未曾有の被害映像にことば失ひ立ちつくすのみ」
3



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