錆びついた缶の中から、大昔の年賀状が出て来ました。宛名は自分になっているので確実に自分に来た年賀状のはずなのですが、差出人の記憶がどうしても思い出せません。恐らく、小中学校時代のクラスメイトからのものなのですが、当時はほとんど愛称で呼び合っていたので、そのあたりの事もあると思います。
そういう訳で、今から数十年前の事を思い出そうとしたのですが、完璧なまでに思い出せませんでした。
現在、ボクの出た小中高絞は過疎化、統合、廃校の為に全て無くなっています。校舎などの記憶は朧気に残っているのですが、所在地などはもう定かではありませんでした。もちろん、町の様子もかなり変わってしまいました。降り立った駅の大きな石ころもそうなのですが、ここはここで新しい時代を迎えているようです。それが良いのか悪いのか、批評する資格はボクには無いし、それ以前によく解りません。
とりあえず、どこかに昔の想い出がないものかと捜してみましたが、かろうじて神社の境内だけが、昔の面影が残っていたように思います。しかし、それも朧気な記憶でしかありません。昔は相撲の土俵があったはずなのですが、それはどこを捜してもありませんでした。確かに、この境内で夕暮れまで遊んだ記憶はありますが、何をして遊んだのかは最後まで思い出せませんでした。
あの当時、遊んだ数人の友達とは、今も多少の付き合いはあります。しかし、今回の年賀状の中には彼らの賀状は1枚も無かったのも不思議な事の一つでした。
事実と記憶、事実はあくまでも事実なのでしょうが、そこに付随している記憶の曖昧さ。要は、その記憶一つで想い出は、良くも悪くも、面白くも詰まらなくもなるようです。
埃にまみれた本棚の中から、無くしてしまったと思っていた、寺山修司「誰か故郷を想はざる」初版、芳賀書店版を発見しました。そういえば、高校時代は寺山修司をむさぼるように読んでいたような記憶があります。
「去りゆく一切は比喩にすぎない」ならば、比喩を通して何を語ろうとするかをこそ問われねばならない。 ――寺山修司「誰か故郷を想はざる」より
錆びついた缶の中から、出てきた大昔の年賀状。たぶん、それはそれで、そういう事だったのでしょう。