原民喜が残した中で主語が「僕」である唯一の詩と思われる。他の詩の「私」が現世を越えようとしている一方(「悲歌」)、「僕」は現世に立っている。しかし、既に自分はそこを去るかもしれないという予感がある。
外食食堂のうた
毎日毎日が僕は旅人なのだらうか
驟雨のあがつた明るい窓の外の鋪道を
外食食堂のテーブルに凭れて 僕はうつとりと眺めてゐる
僕を容れてくれる軒が何処にもないとしても
かうしてテーブルに肘をついて憩つてゐる
昔、僕はかうした身すぎを想像だにしなかつた
明日、僕はいづこの巷に斃れるのか
今、ガラス窓のむかふに見える街路樹の明るさ
(「
魔のひととき」より)
去るかもしれない予感がありながらも、雨上がりの陽光が詩全体に射していて明るい。「うつとりと眺めてゐる」「憩つてゐる」姿は、どの地にあっても今を心から楽しんでいようという態度に見える。
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実家に帰っても罹るほどの猛烈なホームシック。その時に思い出す詩でもある。

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